日本が台湾を領有していた50年間、多くの日本人が台湾に移住しました。その目的は主に農業でした。特に近年、台湾旅行ブームの高まりを受けて、台湾移民史が再び脚光を浴びています。

しかし、今日において注目を集めるのは、あくまでも「東海岸の移民」にすぎません。西海岸の移民はどうでしょうか?

そもそも台湾西部への日本人移民は、あまり知られていないのが実情です。もちろん、台湾西部には日本人の足跡が色濃く残っていますが、それはたいてい役人・駐在員といった「短期滞在者」によるものと言っても過言ではありません。永住を目的にした移住者は東海岸と同じく、農業移民がメインになってきます。

西部への農業移民は歴史が短く、東部への移民が1900年代に始まったのとは対照的です。台中州では昭和7年度に、台南州では昭和10年度に、高雄州でも昭和10年度にようやく官営移民村が成立しました。

今回はその中でも、台南州虎尾街に建設された「春日村」に焦点を当てようと思います。

台南州における官営移民村の歴史

台南州における移民事業は、まず州立国民農業学校嘉南塾の創設から始まりました。これは本土・台湾間の融和・親睦を図り、かつ台湾農村部の中堅となるべき若手を育成する目的で、昭和9年度に創設されたものです。定員は内地人・台湾人各10人とされ、1年かけて教養と熱帯農業経営を習得しました。

その後、同卒業生の内地人を自作農として定着させることを目的に、斗六郡内に6戸18人の移民村を設けました。昭和10年度(1935~36)のことです。この村は栄村と呼ばれ、当初は財団法人嘉南共栄協会の主導のもとで、経営が行われました。

やがて、台湾総督府によって官営化された栄村は、新虎尾渓の流域に沿うように範囲を広げていきます。昭和11年度から6年をかけて308戸を入植させる計画のもと、11年度に34戸、12年度に50戸を招致しました。その結果、栄村には4つの集落(東園・中園・西園・尾園)が誕生しています。

また、昭和13年度には栄村の隣接地に31個を招致して、ついに春日村が成立しました。15年度には新規移民を招致して村を拡充し、最終的に3つの集落(松園・竹園・梅園)が誕生しています。

結局、1945(昭和20)年の敗戦を受けて、移民村事業は中止を余儀なくされ、日本人は台湾からの引き上げを余儀なくされました。春日村は10年にも満たない、短命の移民村に終わったのです。

虎尾地図
上の図は現在の虎尾鎮周辺の地図をベースに、地名をいくつかあてはめたものです。青線は新虎尾渓、黒線は台湾高速鉄道、二重丸は現在の鎮郷公所(役場)所在地を示しています。

黒丸のうち、東園・中園・西園・尾園は栄移民村の集落、松園・竹園・梅園は春日移民村の集落に相当します。各地名のうち、中園・西園・尾園は原名のまま、東園は「栄村」という名で称されています。

後程詳しく説明しますが、松園集落は区画整理によって原型を失っています。

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ここからは春日移民村の現在について、写真を交えながらお届けします。今回は西側から梅園、竹園、松園の順に、各集落が現在どうなっているか見ていきます。

新庄子集落(土庫鎮)から脇道に入り、「光復荘」と示された方を目指し進みます。春日村は戦後、「光復荘」という国民党によるプロパガンダ色の強い地名に改められました。このほかにも、移民村の範囲を「梅子園」と称することもありますが、あまり一般的ではなさそうです。

梅園集落の現在

新庄子から農道を一直線に進むと、並木道が見えてきました。梅園集落に到着です。

春日村にあった三集落のなかでも、一番当時の面影を残しているとのがここです。面影と言っても、当時の建物が残っているわけではありません。碁盤の目状の町割りに、かろうじて昔の面影を見出せるぐらいです。

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今回の調査で一番目についたのが豚舎でした。至る所に豚を飼育する建物があって、凄まじい匂いを漂わせています。これは梅園・竹園双方にいえることですが、一帯は虎尾屈指の畜産地域になっているようです。

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梅園集落内には泰安宮が鎮座しています。

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やがて並木が途切れると、集落の端に到着です。

竹園集落の現在

続いて村中央部にある竹園集落に向かいます。

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一見すると梅園と同規模の集落に見えますが、豚舎と学校がその敷地を大きく占めている他は、数世帯の民家しかありません。春日村時代は東西に長く伸びていたようで、その大半が原野に帰しています。

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梅園とは異なり、竹園は町割り自体もだいぶ変わっていると判断しました。小学校のほかに、移民村時代の面影を見出すのは難しいと思います。

松園集落の現在

最後に東端部にあった松園集落をめぐります。こちらは高鐵建設による区画整理を受け、町割り自体も完全に変化しました。移民村の面影を探す以前に、何もかもがすでに消滅しています。

しかし、松園集落自体は高鐵建設とは関係なく、すでに消滅していたようです。高鐵の建設が始まった頃の航空写真(geoTAIWAN全台航照射影像)を見てみると、雲林駅周辺は開発前ながらも、松園集落がどこにも見当たらないのが分かります。

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しかし、松園の名は21世紀になって復活しました。高鐵建設に合わせて区画整理が行われた結果、集落跡地に「松園路」という街路名が出現したのです。どのような形であれ、地名が保存されるというのは好ましいことです。

総括

以上、春日移民村の歴史を現状について見てきました。当初の予想通り、移民村時代の痕跡を辿るのは容易ではなく、辛うじて町割りに面影を見出せる程度でした。移民村は大方畜産地域に生まれ変わり、随所に豚舎が設けられています。

春日村の面影が薄れゆく一方で、「松園路」のように地名が保存されるケースもあることが分かりました。

撮影日:2018年12月30日

(参考文献)
台湾総督府殖産局編『台湾農業年報. 昭和18年版』台湾総督府殖産局、1944年




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