北海道の北にある細長い島「樺太」を象徴するものの一つに、北緯50度線があります。この線は1905年のポーツマス条約により、日本とロシアの国境線と定められました。

もっとも、南樺太もろともロシアの不法占拠が続く今となっては、この線も有名無実と化していますが、朝鮮半島と遼東半島の国境線(現在の北朝鮮・中国・ロシア国境)とともに、かつては日本と外国をつなぐ「陸上の国境」として機能していました。

樺太カラー地図
▲南樺太地図
北緯50度線という別名の通り、樺太の日露国境は歪みなき真直ぐな国境線で、西海岸の安別、内陸部の半田沢、東海岸の遠内を一直線に結んでいます。あえて過去形で申さないのは、あくまでも南樺太の帰属が未確定であるからです。

この50度線が戦前、どのような形で保たれ、人々に知られてきたのか。今回は過去の文献から紐解いてみようというのです。


可視化された北緯50度線の日露国境

ときは幕末、ロシア帝国による武力恫喝に屈した日本は、泣く泣くロシア人による樺太入植を許す形になりました。明治維新後の混乱により、さらにロシアによる樺太支配を許す形になり、しまいには樺太千島交換条約が締結され、日本は樺太を完全に手放しました。

樺太放棄からおよそ30年後、日露戦争に辛くも勝利した日本は、南半分だけではありますが樺太の奪還に成功しました。ポーツマス条約により日本による南樺太領有が認められ、ここに北緯50度線の国境が成立しました。

北緯50度線は南北に細長い樺太の中央部にあり、陸地が東西に大きく広がっている個所に引かれています。一帯は鬱蒼とした森林に覆われ、大きな街は全くありませんでした。国境線がここに引かれたことで、早速国境上の森林が伐採されることになりました。生い茂っていた密林は幅10メートル・東西一直線に切り開かれ、そこには国境を示す標柱が17基も建てられました。日本側の面には菊紋が、露側の面にはロシア帝国の紋章が刻まれました。

北緯50度
▲北緯50度付近の樺太地図(『樺太年鑑. 昭和8年』掲載地図をもとに筆者作成)
国境線が引かれたことで、樺太の南半分(南樺太)は日本領樺太庁として、北半分は露領サハリン州として、それぞれ異なる発展を遂げていきます。本項では特記しない限り、「サハリン」の名称を用いず、北緯50度以北の樺太を指す場合は「北樺太」を用いることにします。

日を追うごとに南樺太の開発は進み、道路や鉄道があちこちに建設されました。昭和5年には樺太鉄道が敷香南郊の南新問への延伸を果たし、翌6年には久春内と恵須取を結ぶバス路線が開設されました。当初は北海道以南からの到達に長い日数を要した敷香や恵須取も、気軽に訪れることのできる場所へと変わりました。こうした中で、北緯50度線は一種の観光地として見出されていきます。


観光資源になった日露国境線と観光地化の弊害

交通網の整備が進んだことで、外地樺太はいっそう日本本土の一員に近づきました。樺太に渡る観光客も増えたようで、国境線は樺太屈指の名所として見なされ、旅行者必見の場所とまでいわれるようになりました。

国境沿いには日露両国による監視所が置かれ、相互に侵犯者が出ないように国境を管理していました。先述のように露側(以降、基本的にソ連を指す)の国境管理は厳しいもので、監視所の後方には規模のより大きなGPU(ソ連初期のいわば秘密警察)の基地があり、警備兵は家族をつれて生活していたようです。一方で、厳重な露側の警備に比べると、日本側の警備は手薄といっても過言ではありませんでした(尾瀬1938)。

北樺太の在亜港総領事をつとめた佐々木静吾は、これまで陸続きの国境とは無縁だった日本にとって、はじめて国境線を持ったことは、人々の好奇心をそそる事象だったと指摘しています。現在のように監視カメラもありませんから、「異国の土を一歩だけでも踏みたい」という好奇心に駆られた訪問者の中には、警備を隙間をかいくぐって越境体験をしたことでしょう。

日本人が国境に対して好奇心に駆られた一方で、ロシア人は国境に対してシビアだったようです。広大な領土を有するロシアは、隣国と数々もの国境問題を抱え、時には武力を交えながら解決してきました。そうした経験から、ロシア人による国境地帯の管理は厳重を極めていたのです。北樺太やカムチャツカ半島の沿岸を移動する際には、GPUの許可が必要とされ、許可証がないと逮捕・拘束されたのです(佐々木1932)。

逮捕されたら最後、西海岸のアレクサンドロフスク(亜港)へと連行され、軍事スパイの嫌疑により長期間の拘束が待っていました。今でこそ海外旅行の大衆化により、日本人の国境に対する関心は十分にあると思います。しかし、海外旅行が一般的でなかった戦前の日本人は、国境という存在に対して無頓着の傾向にあったようです。

この国境に対する無頓着さが、昭和初期を代表するスキャンダル事件を生み出すことになります。次項では早速、そのスキャンダル事件について見ていきましょう。


杉本良吉・岡田嘉子越境事件と国境警備問題

樺太の北緯50度線を騙るうえで欠かせないのが、演出家・杉本良吉と女優・岡田嘉子の駆け落ち越境事件です。ときは昭和12年の12月、二人は豊原にたどり着きました。東京を出た時点では岡田単独での行動だったようですが、樺太に上陸するまでの経緯に関しては、本項の趣旨に合わないので割愛することにします。

杉本と岡田は豊原から列車に乗りこみ、当時最北端の駅だった敷香に移動しました。敷香の山形屋という旅館で一泊後、国境警備要員の慰問名目で国境を目指しました。途中保恵までバスに乗り、そこから馬そりに乗り換えて気屯で一泊を挟み、国境のある半田沢を目指しました。

蛇足ですが、山形屋のある敷香市街地にしても、保恵にしても、半田沢にしても、すべて敷香軍敷香町の領域内にあります。その面積は非常に広大なもので、戦後も実効支配が続いていれば、間違いなく日本最大面積を誇る自治体になったことでしょう。もっとも、昭和30年代までに分割されて、上敷香や古屯が一つの町・村になっていたかもしれませんが。

岡田逃避ルート
さて話を元に戻して、杉本・岡田両人は半田沢の国境地帯に到着しました。二人が慰問のために訪れたと信じた本邦警備隊は、国境案内の希望に応じて二人を国境に案内しました。やがて国境が近づくと、二人は御者を脅して馬そりから降り、そのまま雪に覆われた北緯50度線を越えていったとされます(尾瀬1938)。

杉本・岡田両人は越境直後GPUに拘束されたようで、国境地帯(オノール近郊か)でしばらく拘留されたのち、身柄はアレクサンドロフスクに送られました。(尾瀬1938)執筆当時は騒動直後ということで、その後両人がモスクワに向かうのか否かという疑問で終わっています。その後、二人はモスクワに移送され、岡田は生き延び天寿を全うしたものの、杉本はスパイ容疑により銃殺刑に処されました。

杉本・岡田駆け落ち騒動後の昭和14年、政府はついに国境地帯への立入を禁じる法律を制定しました。それが「国境取締法」です。この条文は昭和14年4月1日付の『官報』に見ることができます。あきらかに、駆け落ち騒動を反映したものとみて良いでしょう。

樺太の国境警備がようやく厳しくなったのは、1930年代も末になってからでした。それまでの間、一般人でも国境線間近に立ち入りできる状況だったというのですから、以上の例から日本側の国境警備がいかに手薄だったかお分かりになれるかと思います。


戦前にも相次いだロシア(ソ連)警備兵の国境侵犯

ロシア(ソ連)は昭和20年の8月、日ソ中立条約を一方的に破棄したうえで北緯50度線以南の樺太に侵入しました。これにより、南樺太はロシア人の支配下に組み込まれ、そのまま現在に至ります。

ロシア人による南樺太侵攻前にも、許可なくして北方から50度線を越境する行為は散見されます。例えば、『蘇聯邦年鑑. 1939年版』に北樺太国境事件という項目があるので見てみると、昭和13年夏頃からロシア側兵士による不法越境が頻発していることが見て取れます。

不法越境だけでなく、射撃行為・飛行機を使った越境行為も行われていたようです。射撃行為により、国境警備をになう巡査が負傷した記録もあります。こういった経緯やノモンハンでの敗北もあり、日本側が露による南進を警戒するようになったのは言うまでもありません。


「北緯50度線」を語り継ぐべき時代に

ロシア人による南樺太侵攻から72年がたち、日本人は北緯50度線の記憶どころか、「樺太の記憶」すらも忘れ去ろうとしています。これまで何度も述べてきましたが、周辺諸国の意向を忖度するというメディアはこぞって、樺太のロシア語地名「サハリン」を慣用するようになり、樺太という日本語地名を「過去の遺物」として扱う馬鹿げた行為に走る始末です。

そのような中で、北緯50度線がいったい何を示すのか知る日本人は年々減るに違いありません。辛うじて学校教育で使う地図帳に「真っ白な南樺太」と「赤い50度線」が引かれる程度で、どうしてそうなっているか、わざわざ自主的に考える日本人というのも少ないでしょう。

児童・生徒にとって、領土問題について学ぶ場はどうしても社会科の授業(地理・歴史)に限られがちです。しかし、どんなに教育を受けても、領土問題なんて他人事だと思う日本人は一向に減りません。中には「外国から強引に奪い取った土地が、戦争に負けたことで本来の持ち主の手に戻った」という解釈に陥る場合もあるでしょう。勿論、樺太問題もその中に含まれがちです。

先ほど、戦前の日本人は国境に無頓着だったと申しましたが、現代日本人はまた別の意味で国境に無頓着なのかもしれません。現在、わが国の実効支配地域には陸の国境がありません。海の国境というのはどうしても形にし辛いものですから、国境について教育するにあたって、現状を踏まえるだけで理解することは難しいのです。

戦前の外地政策(のちに樺太庁は内地編入されたが)について、完全悪として断罪するばかりの歴史教育に終止符を打たねばなりません。領土が周辺国によって脅かされている今だからこそ、北緯50度線の存在について深く掘り下げ、過去の歴史から国境について学ぶべき時ではないでしょうか。それだけ、樺太の歴史は殆ど教えられていないということでもあります。


(参考文献)
佐々木静吾「日ソ国境見物者に対する注意ご希望=日ソ国境観念の相異=」樺太敷香時報社 編『樺太年鑑. 昭和8年』532-533頁、樺太敷香時報社、1932年

鉄道省 編『鉄道停車場一覧. 昭和9年12月15日現在』川口印刷所出版部、1935年

尾瀬敬止『樺太国境の実状 : 問題の杉本嘉子はどうなる?』亜細亜出版社、1938年

日蘇通信社 編『蘇聯邦年鑑. 1939年版』日蘇通信社、1939年




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