はじめに

モンゴル高原東部で活動した遊牧集団・契丹は、10世紀に耶律阿保機によって統一されました。やがて耶律阿保機は、一般的に「遼」として知られる王朝を築き、北側から北宋を圧迫しました。

しかし、耶律阿保機が台頭する前の契丹は、モンゴル高原南東部の小集団として、唐王朝や突厥に服属していたとされています。今回は「安史の乱」により中華世界が混乱する直前期にあたる、8世紀の契丹について簡単にみていきます。

結論から言うと、この時期の契丹は「唐王朝」「突厥」というに大集団に挟まれており、情勢に応じて両者の翼下を行き来していました。まずは契丹がどのような集団だったのか、史料から大まかに見ていきます。

8世紀より前の契丹について

『旧唐書』巻199下、列伝第149、北狄の「契丹伝」によると、長安の東北5300里にある、鮮卑の故地に居住する騎馬遊牧集団で、東で高麗と、西で奚と、南で営州と、北で室韋とそれぞれ接していたとされています。

南方の唐王朝、北方の突厥という、二大勢力に挟まれていたので、先ほど述べたように、それぞれの影響を受けながら勢力を保っていました。契丹は八部族に分かれており、大賀氏(契丹を構成する氏族のひとつ)が集団を率いる一方で、部族代表の合議も行われていたとされています。

契丹は当初、突厥に服属していましたが、7世紀から唐の影響下に入り、松漠都督府が設置されました。この松漠都督府というのは、契丹の活動地域におかれた都督府です。かつての契丹君長・窟哥が部落を率いて唐に服属した際、彼は松漠都督を拝しました。それ以降、契丹の有力者が松漠都督に任命されるようになったとされています。

やがて、契丹人の李尽忠・孫万栄による反乱が勃発・平定されると、第二可汗国として再自立した突厥に再度寝返りました。こうして契丹は、突厥服属下で8世紀を迎えることになります。

8世紀初頭の契丹(1) 唐への帰順と李失活の台頭

内蒙古
▲契丹の活動区域を中心とした北東アジア地図
点線は現代の国境線、斜線は遊牧集団名、黒丸はそれぞれ幽州、営州の所在地

8世紀に入り、突厥の黙啜可汗の失政と、玄宗による東北計略の強化の影響を受けたせいか、契丹は開元2年(714)に再度唐に帰順しました。これにより、一旦消滅状態になっていた松漠都督府は再設置されました。

契丹君長の李失活は、開元4(716)に左金吾衛大将軍兼松漠都督松漠郡王の称号を受け、翌年には初の公主降嫁により永楽公主を娶りました。なお、この李失活は先述の反乱指導者・李尽忠の従父弟にあたります。

開元年間初頭に起こったこの一連の出来事は、『新唐書』巻219の「契丹伝」に詳しく記されています。以下、白文と書き下しです。

(白文)
開元二年、盡忠從父弟都督失活以默啜政衰、率部落與頡利發伊健啜來歸、玄宗賜丹書鐵券。後二年…(中略)…授左金衞大將軍;仍其府置靜析軍、以失活爲經略大使、所統八部皆擢其酋爲刺史。詔將軍薛泰爲押蕃落使、督軍鎮撫。帝以東平王外孫楊元嗣女爲永樂公主、妻失活。

(書き下し)
開元二年、盡忠の從父弟の都督失活 默啜の政衰を以てし、部落を率いて頡利發伊健啜と與に來歸す、玄宗 丹書鐵券を賜ふ。後二年…(中略)…左金衞大將軍を授ける;仍て其の府 靜析軍を置き、失活を以て經略大使と爲し、八部皆を統べる所となりて其の酋を擢き刺史と爲す。將軍 薛泰に詔して押蕃落使と爲し、軍を督いて鎮撫す。帝 東平王の外孫 楊元嗣の女を以て永樂公主と爲し、失活に妻とす。

李失活に嫁いだ永楽公主は、東平王の外孫・楊元嗣の娘にあたります。この時点では、まだ強国である唐と突厥の強い影響下に置かれており、完全に自立しているとは言い難い状況です。あくまでも中小規模の遊牧集団でしかありませんでした。

やがて、君長が代代わりする中で、一人の人物が契丹内部を牛耳ることになります。次節では、その人物の動向を中心に見ていきましょう。

8世紀初頭の契丹(2) 君長を裏で操る可突于

永楽公主が降嫁した翌年の開元6(718)年、君長の李失活は没し、李尽忠の弟にあたる李娑固がその跡を継ぎます。同時に、李娑固は李失活の封ぜられた地位と所領を踏襲しました。

李娑固の大臣で静析軍副使の可突于という人物は、李娑固と対立関係にありました。やがて両者は交戦のすえ、可突于が李娑固を営州に追いやるかたちで、一旦決着がつきました。

営州に落ちのびた李娑固は、営州都督の許欽擔、奚の君長・李大酺の兵とともに再度可突于を攻めますが、李娑固と李大酺は戦死し、許欽擔は恐れをなして退却するなど、可突于が勝利する形で完全に決着がつきました。

李娑固の死後、可突于は新たに君長として李鬱于を立てます。さらに、唐に使者を派遣して許しを請い、許されて李鬱于は松漠都督となりました。可突于は李娑固と対立した結果、唐側と交戦する形になりましたが、結局彼は許され、契丹は引き続き唐側に服属します。

やがて、李鬱于は来朝して降嫁を請い、燕郡公主の降嫁を受けて、松漠郡王に封ぜられました。この燕郡公主は、玄宗の従妹の夫・慕容嘉賓の娘にあたります。

燕郡公主降嫁の翌年、李鬱于は病死し、その弟・李吐于が新たな君長の座につき、燕郡公主を妻として迎えました。おや、弟が兄の寡婦を娶りましたね。これは「レビレート婚」というもので、古い遊牧民社会ではよく見られました。

なお、鮮卑の一派とされる唐王朝でもまた、レビレート婚が行われていたと記録されています。唐王朝のレビレート婚についても詳しく見たいところですが、本題から外れるので今回は割愛とします。

李吐于は可突于と不仲であったことから、開元13(725)年、李吐于は燕郡公主とともに唐へ下りました。改めて遼陽郡王に封ぜられると、再び戻ってくることはありませんでした。

李吐于の出奔後、可突于は李尽忠の弟・李邵固を新たに擁立しました。唐の皇帝・玄宗が泰山へ封禅に出向いた際、李邵固も玄宗に同行したとされています。封禅の翌年、李邵固は左羽林軍員外大将軍兼静析軍経略大使に任命され、広化郡王に封ぜられたほか、東華公主の降嫁も受けました。この東華公主は、玄宗の従外甥の娘・陳氏の娘にあたります。

8世紀初頭の契丹(3) 可突于の最期

契丹汗家系図
▲李尽忠~李邵固の血縁関係図(『旧唐書』『新唐書』をもとに)
開元18(730)年、可突于は李邵固を殺害して屈烈を擁立し、ついに部落を率いて、奚とともに突厥の翼下に入ります。李邵固に嫁いでいた東華公主は、平盧軍に逃亡しました。これ以降、契丹は唐と対立状態に入ります。

可突于が屈烈を立てるという描写は、『新唐書』「契丹伝」では見られますが、『旧唐書』「契丹伝」の方では記載されていません。まず『旧唐書』巻199下、列伝第149、北狄「契丹伝」の該当個所を見ていくと、以下のように記載されています。

(白文)
可突于殺邵固、率部落并脅奚衆降于突厥、東華公主走投平盧軍。

(書き下し)
可突于 邵固を殺し、部落を率いて奚の衆を并脅して突厥に降り、東華公主 平盧の軍に走投す。

以上、可突于が李邵固を殺し、奚を脅して突厥に帰順し、東華公主が平盧に逃亡したことだけが記されています。一方、『新唐書』巻219、列伝第144、北狄「契丹伝」では、以下のように記載されています。

(白文)
可突于殺邵固、立屈烈爲王、脅奚衆共降突厥、公主走平盧軍。

(書き下し)
可突于 邵固を殺し、屈烈を立て王と爲す、奚の衆を脅かして共に突厥に降り、公主平盧の軍に走る。

以上のように、李邵固が殺される描写と突厥に帰順する描写との間に、屈烈擁立の一文が見えます。『旧唐書』の方では、李邵固に代わる君長擁立の描写がなく、屈烈の名も登場しません。

可突于が突厥側に下って以降、唐は北方の契丹・奚・突厥三者との対立状態に入ります。やがて幽州長史の張守珪は、契丹衙官の契丹人・李過折を利用して、可突于と屈烈を殺させました。張守珪は李過折に契丹遺衆を率いさせ、可突于らの首を洛陽に送りました。あれだけ契丹を裏で牛耳っていた可突于も、殺されるとあっという間でした。

開元23(735)年、李過析は北平郡王と松漠都督に封ぜられますが、同年、可突于の残党・泥礼に殺害されました。泥礼の名は同じ「契丹伝」でも、『新唐書』では見られず、『旧唐書』にのみ見られます。『旧唐書』巻199下、北狄「契丹伝」では、李過析の殺害場面を以下のように描写しています。

(白文)
其年、過折爲可突于餘黨泥禮所殺、并其諸子、唯一子刺乾走投安東得免、拝左驍衛將軍。

(書き下し)
其の年、過折 可突于の餘黨 泥禮の殺す所となり、其の諸子を并せる、唯一子の刺乾 安東に走投して免るるを得、左驍衛將軍を拝す。

以上のように、可突于の残党と泥礼によって、過折の子も殺害されましたが、その中でも刺乾だけは唐側に逃れ、左驍衛将軍の称号を受けたのです。

李過析殺害から二年後の開元25(737)年、張守珪は契丹を再攻撃し、打ち破りました。なお、安史の乱を率いた安禄山は当時、張守珪のもとで働いており、契丹攻撃にも参加しています。この時点でも、契丹は唐・突厥のいずれかに服属しており、開元初頭と同じく、唐・突厥間の抗争に利用されていたと考えることができます。

可突于とはどのような人物か?

ここで、李娑固の擁立期から李過析の台頭期にかけて、可突于という人物の名前が、至る所で登場していることに着目してみましょう。可突于は契丹の大臣・静析軍の副使をつとめた人物で、『旧唐書』巻199下、北狄「契丹伝」には彼の人となりが記載されています。

(白文) 
娑固大臣可突于驍勇、頗得衆心、娑固謀欲除之。

(書き下し)
娑固の大臣 可突于 驍勇にして、頗る衆の心を得る、娑固 謀りて之を除かんと欲す。

また『新唐書』巻219、列伝第144、北狄「契丹伝」では、以下のように記載されています。

(白文)
有可突于者、爲靜析軍副使、悍勇得衆、娑固欲去之、未決。

(書き下し)
可突于という者有り、靜析軍副使と爲りて、悍勇にして衆を得る、娑固 之を去らしめんと欲するも、未だ決せず。

以上の記載から見えるように、可突于は勇ましく、人々からの信用も厚かったとされています。そのために、李娑固は可突于と対立するようになったのです。

李娑固が君長となって以降、可突于は君長を立てたり廃したりしてきました。彼は契丹内部で大きな力を持っており、可突于が思うままに君長を操っていた様子が見えてきます。

中には可突于と対立した君長もいますが、唐に出奔した李娑固・李吐于や、殺害された李邵固のように、結局その地位に留まることはできなかったのです。

まとめ

今回は可突于を中心に、8世紀初頭から安史の乱勃発前にかけての契丹について見てきました。10世紀になると、耶律阿保機のもとで強大な国家を形成する契丹ですが、それ以前の彼らは大勢力に服属・離反を繰り返す中小集団でしかありませんでした。

ゆえに8世紀の契丹はあまり語られることもなく、資料数も必ずしも多いとは言えません(最近では石刻資料の出土でやや豊富になりましたが)。学術の面では注目を集めつつありますが、やはり一般の方にとって契丹という存在、ましてや8世紀頃の契丹というのはなじみが薄いと思います。

あまり一般的でない分野を知ってもらおうと思い、以前某所で公開した文章を抜粋・編集のうえでここに掲載します。あくまでも趣味の一環としての掲載にすぎず、学術的に何か言おうという目的で掲載したものではありません。あしからず。



(参考資料)
金子修一 「唐代の異民族における郡王号について: ―契丹・奚を中心にして―」『山梨大學教育學部研究報告. 第1分冊, 人文社会科学系』36号、47~63ページ、1985年

森部豊 「『安禄山』研究篇」『ソグド人の東方活動に関する基礎的研究』9~46ページ、2013年




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