台湾・朝鮮・南洋で戦前、日本語教育を受けた現地住民は「日本語世代」として知られています。とくに台湾・南洋(パラオ・ミクロネシア・マーシャル諸島・北マリアナ)の人々には親日家が多く、対日文化交流の懸け橋を担ってきました。

ところが終戦から70年が経過した今、日本語世代の高齢化が進み、その人口は徐々に減りつつあります。同世代の年齢は若くても70代後半となり、「日本統治時代」をリアルタイムで経験した人々との交流は、年々難しくなりつつもあります。7月に「日本精神」で知られる蔡焜燦氏が逝去したことで、私も改めてその現実を痛感させられています。

そんな中、私は台湾東部にある花蓮県鳳林鎮に向かいました。こちらには日本統治時代に内地人移民村の「林田村」が置かれ、多くの日本人が移住してきたことは、以前にも当ブログで述べた通りです。そんな鳳林にも日本語世代は存在します。しかも客家人が多い鳳林では珍しく、広東系の台湾人に出会うことが叶いました。


▲「亜美花蓮名産」を写したストリートビュー
個人的にGoogleは嫌いなので通常掲載しませんが、「ストリートビュー」に亜美花蓮名産の外観が写っているのでお届けします。

鳳林の玄関口・台鉄鳳林駅前には土産物店が数軒あります。そのうちの一つ「亜美花蓮名産」で花蓮土産を買おうと入店すると、店番をしていたのは高齢の男性でした。年齢はぱっと見でも80代であることは間違いなく、綺麗な服装に身を包んだ「紳士的な姿」がまず目に飛び込んできました。その姿はまさに日本人のおじいさんで、亡き祖父を思わせる佇まいです。

「あんたは日本人か?」

買い物を終えて日本語で話してみると、やはりその男性は日本語世代でした。断りを入れてから戦前の鳳林について、男性から聞き取り調査をすることにしました。

今回(2017年4月)の台湾フィールドワークでは、必ず一度は日本語世代からの聞き取り調査を行うと決めていました。戦前の鳳林について気になることは山ほどありました。林田村に隣接する集落「金田」のこと、戦後混乱期の鳳林のこと、戦前に建てられた住宅の現存状況など、日本語世代に取材しないと分からない事ばかりでした。

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▲快く取材に応じてくださった「亜美花蓮名産」の陳鏡尭氏

件の高齢男性は陳鏡尭と名乗りました。なんでも出生地は鳳林はおろか東海岸でもなく、西海岸の新竹で昭和6年に誕生し、幼少期(昭和8年頃)に両親とともに鳳林に移住したとのこと。御年86歳で、亡き祖父よりも一歳年下です。しかも台湾では比較的少数派にあたる、広東系移民の末裔にあたります。台湾には「広東荘」(花蓮県瑞穂郷)をはじめとする地名から分かるように、広東人の移住が古くから行われてきました。

陳氏に福岡から来た旨を伝えていると、氏と同世代の高齢男性が近づいてきました。その男性はどうも台語を使用しているようです。「元気か」「馬馬虎虎(まあね)」といった会話が少し続き、やがて相手の男性が去っていくと、陳氏は衝撃的な一言を仰りました。

「あの人は中国から来た外省人だよ」

なんと先ほどの高齢男性は鳳林在住の在台中国人でした。どうやら厦門方面から植民してきた方のようで、どうりで北京語ではなかったわけです。たしかに在台中国人には、福建・浙江出身者が多いとよく耳にします。

戦前の住宅はどれほど残っているか

今回、陳氏から鳳林に関する情報を多く伺うことができました。今回はそのうち幾つかをご紹介します。

同じ鳳林鎮にある「林田村」には日本家屋が多数現存していますが、個人的には鳳林市街地における戦前期に建てられた建築物の残存状況も気になっていました。陳氏曰く、店の両脇にある平屋がまさに戦前築とのこと。改装されてトタン屋根になっているため、全く気が付きませんでした。

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▲鳳林中心部を散策していると発見した出店

鳳林市街地に関しては、コンクリート造りか木造かで、日本統治時代の建物か否かを見分けられるとの回答をいただきました。また、駅前には立派な旅館も建っていたそうで、話を少し伺うだけでも、鳳林駅前が戦前から賑わっていたことが伝わってきます。

今もなお戦前の建築物は多く現存していますが、改めて町並みの変化について尋ねたところ、「(日本統治時代と比べて)全く違う風景に変わってしまった」とのことでした。

金田は「かねだ」なのか

私が「金田」という地名に出会ったのは2013年のことでした。林田村の旧地名でいうと南岡と中野の間には、金田という台湾人が開拓した集落があります。この集落は洪水被災者の集団移転で成立し、誕生時期は昭和19年とも、戦後間もない時期ともいわれています。

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▲鳳林中心部の出店で購入した回転焼は一個7元、黒餡とカスタード味の2種類から選べた

南岡と中野の間にある集落に関する質問であることを伝えたうえで、そこが日本統治時代に存在したのか尋ねたところ、帰ってきたのは「あの辺りは一面森だった」という驚きの答えでした。陳氏いわく、金田は戦後になってから発展した集落とのこと。金田が「かねだ」と訓読みで発音するのはどうも誤りのようです。

戦後一番苦労したこと

戦後、台湾では中華民国による実効支配のもとで日本語の使用が厳しく制限されました。さらに在台中国人が大量に台湾へと流入したことで、彼らとの意思疎通の問題が生じました。陳氏もやはり、彼ら中国人との意思疎通の点で大変苦労したとのこと。この問題は、台湾人が北京語を会得させられるまで続きました。

今でこそ、多くの日本人は台湾人=中国語(≒北京語)という印象を抱きがちですが、昔から中国語を解していたわけではないのです。おまけに北京語と広東語や台語のルーツにあたる福建語は、同じシナ・チベット語族のシナ語派に属するとはいえ、そもそも意思疎通が難しいほどに発音が異なります。同じ日本諸語の関東方言と八重山語で意思疎通が困難なのに類似しています。

二二八事件について

二二八事件による一連の台湾人虐殺・弾圧は、陳氏の脳裏にも衝撃と深い記憶を刻んでいきました。同事件についてもお話を伺うことができましたので、簡単にご紹介します。

事件後もなお戒厳令下で、多くの台湾人が弾圧の対象になりました。火焼島(緑島)の収容所に押し込められたのはまだ序の口で、ある日突然連行されてそのまま戻ってこない人も多くいました。そもそも遺体のありかすら分からない被害者も未だに存在します。

多くの台湾人が何のかかわりもないというのに、無実の罪により連行され、そのまま行方不明になったのです。

亜美花蓮名産について

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今回、陳鏡尭氏から聞き取りをする中で、非常に有意義な情報ばかりを得ることができました。年々減少傾向にある日本語世代の記憶を伝えるのは、我々若い世代の役割だと思います。その点を陳氏にお伝えしたところ、ありがたいことにご理解をいただけました。突然の来訪にもかかわらず、快く応対してくださった陳氏には感謝してもしきれません。

また、今回訪れた「亜美花蓮名産」を訪れる日本人は年に一人いるかいないかという状況で、私が2017年に訪れた最初の日本人なんだそうです。日本語を話す機会が少ない陳氏は、取材が進むにつれ、忘れていた単語を思い出しているようでした。

日本語を母語とする私にとって、日本語を話すことは日常生活の一つなので「日本語を話す楽しさ」を感じることはありません。しかし陳氏の表情はまさに「日本語を話す楽しさ」を体現しているように見えました。そのようであると私は信じています。

最後に、これから台湾旅行を考えている方で、日本語世代と触れ合いたいという方に陳氏が切り盛りする土産物店「亜美花蓮名産」をご紹介します。鳳林駅前という利便性の良い場所にある同店では、花蓮特産の餅菓子や東台湾名物という唐辛子の漬物「剥皮辣椒」等を扱っています。

お土産物を買っていくのに最適ですし、日本語世代との交流もできます。どうぞご来店ください。日本人である旨を伝えれば、たいへん喜ばれると思います。

撮影日:2017年4月2日




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