今回の訪問地・津和瀬集落は宗像市沖に浮かぶ、大島の北西部にあります。


本土からの渡船が発着する大島中心部は、ちょうど島の南岸一帯にあたります。津和瀬集落は中心部から一番遠く離れた場所に位置しており、中心部からだと必ず山越えをしなければ、行くことが出来ません。大島で一番アクセスしづらい集落といえます。

この山越えがなんともハードで、中心部と津和瀬集落(島北東部)をへだてる峠とは比べ物にならないレベルの急坂・急カーブを有しています。大島の北西海岸は断崖絶壁に囲まれており、穏やかな海岸線が「津和瀬を除くと」存在しません。そのせいで、大島北部の道路は起伏に富んでいます。

津和瀬集落は先ほども述べたとおり、大島北岸部では数少ない穏やかな海岸線を持つ地域です。集落を包み込むように入江が形成され、入り江に沿う形で県道・集落が置かれています。

規模は小さく、家屋は5世帯ほどしかありません。人口も10~20人ほどといったところでしょう。10分ほどで全域を散策できそうです。

今回は集落東端から順に、津和瀬散策をしてみます。

津和瀬―南蛮船も漂着した「海のオアシス」

大島北西部の道路は山がちで、基本的に海抜数十メートルの場所を通っています。ただし、津和瀬集落を通る区間のみ海抜数メートルの低地を通ります。

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▲東から津和瀬集落を眺めて
集落の規模が小さいため、県道沿いから集落を一望できます。

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▲津和瀬集落の家屋を眺めて

津和瀬は南蛮船ゆかりの地です。

時を遡ること17世紀中葉―ちょうど江戸初期の寛永20(1643)年、ポルトガル船が同地に着岸し、その後上陸したポルトガル人10人が江戸に連行されたという記録が残されています。鎖国真っただ中とはいえ、このように漂着という形で、日本人とオランダ以外の欧州人が接触する機会はありました。

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▲津和瀬集落の磯と「夫婦岩」
夫婦岩は大小一対で構成された巨岩で、津和瀬のランドマークとして親しまれています。

周囲には岩がちの磯場があり、磯遊びをするにはもってこいです。ただし鋭い石もありますから、怪我しないよう注意してください。

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▲民宿「つわせ」

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▲津和瀬の入り江を守るように建つ「木の鳥居」

こちらの海岸は小舟の上げ下ろしができるようになっていますが、現在の津和瀬では船を扱っていないようです。それを示すかのように、集落内に現役の漁船が見当たりません。

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▲古い沿うこと朱に塗られた祠
祠の横には訪問者向けの公衆トイレが用意されています。手洗い場の水もちゃんと出るようになっており、これなら磯遊びで手が汚れても一安心ですね。

中津和瀬―林道が開口する小盆地

津和瀬から西海岸に沿って島中心部を目指す場合、ホトロセ峠を抜けることになります。ホトロセの漢字は「保戸呂瀬」と書き、いわゆる小字地名です。

集落を抜けると玄界灘に別れを告げ、鬱蒼とした内陸部に入っていきます。ところが、視界はすぐに開けて盆地状の場所に出てきます。この盆地状の場所こそが、やはり小字地名の「中津和瀬」です。

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▲中津和瀬地区入口
集落を示す標識が建てられているところから、行政側はどうやら中津和瀬を「集落」として認識しているようです。たしかに人の気配はありますし、家屋も1件見えるのですが、他に家屋は見当たりません。

どうやら中津和瀬は1世帯のみのようです。

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▲林道中津和瀬線標柱

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▲林道中津和瀬線

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▲中津和瀬地区
家屋が1世帯あるほかは、森林と耕地があるのみです。

撮影日:2016年3月23日

(参考文献)
服部英雄「宗像の島々・小呂島、沖ノ島、大島の歴史と地誌」、『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅰ』131-168頁、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議、2011年
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  コメント
日蘭接触があったとは、驚いております。


鳥居が傾いていますが、ロープで支えられているのでしょうか?


離島の集落も、玄海集落が多くなっている様子ですね。
10年後、20年後は、どうなっていることでしょう。

離島は、淡路島、利尻島、礼文島、奥尻島(離島かどうか微妙ですが洞爺湖内の島は行きました)だけ訪れたことがありますが、相当寂しく感じてしまいました・・・
大島は、それ以上に寂しい様子だと拝見しております。
レラティー #rcEo15nI [ 編集 ]    2016年06月08日(水) 00:15
レラティーさん
>鳥居が傾いていますが、ロープで支えられているのでしょうか?

見た限りだと、2本の柱でちゃんと建っていましたよ。建て方の関係で傾いたんでしょうね。


> 離島の集落も、玄海集落が多くなっている様子ですね。
> 10年後、20年後は、どうなっていることでしょう。

今、日本では無人島寸前の島が沢山あると聞いています。たしか、1世帯だけの有人島が五島の方にあります。
余談ですが、露占領下の海馬島は無人島ですね。ロシア人には利尻島ほどの島など、海峡に軍艦を通すために「ただ浮かんでいればよい」としか思っていないのでしょう。樺太は益々荒野と化すばかりです(日本恫喝のため、一応日本人によく見える場所で開発という反日パフォーマンスをしていますが)。
wra #9MBBB9Tg [ 編集 ]    2016年06月08日(水) 22:13
海馬島といえば、どうしても大韓航空機の事件を真っ先に思い出します・・・

以前は有人島だったのでしょうか?


北海道でも、既に松前小島、厚岸小島など無人化されました。


樺太の開発については、「サハリン1」だの「2」だと、石油とかに偏った開発をしている印象です。
邦銀も協力していますが・・・

日本人が開拓した土地にも、思いを寄せ、荒野とならぬよう願います。

北方領土の開発にも(これも温浴施設とか港湾とかに偏っていますね)、本来住むべき方の気持ちを考えると、忸怩たる思いです。
レラティー #rcEo15nI [ 編集 ]    2016年06月08日(水) 22:52
レラティーさん
> 海馬島といえば、どうしても大韓航空機の事件を真っ先に思い出します・・・
> 以前は有人島だったのでしょうか?

露侵略前、昭和8年時点だと約50戸600人の人口があったようです。皿泊集落の近辺をのぞくと、専ら険しい地形が林立する環境にあり、ニシン漁が盛んに行われていました。
(福家勇『樺太とはどんな処か』樺太日日新聞社代理部、1933年)

行政区画は本斗支庁管内の本斗郡海馬村に属し、古丹・鴎沢・皿泊の3字が置かれていました(文録社編輯部編『最近検定市町村名鑑. 昭和18年版』文録社編輯部、1942年)。古写真を見る限りだと、緩やかな丘陵上に大きな集落があったようです。露に侵略さえされなければ、今ごろ礼文島のようになっていたんでしょうね。


> 北海道でも、既に松前小島、厚岸小島など無人化されました。


> 樺太の開発については、「サハリン1」だの「2」だと、石油とかに偏った開発をしている印象です。
> 邦銀も協力していますが・・・

あれは思いっきし、露側に都合よく利用された形になってしまいましたね。(南千島4島の)返還交渉をちらつかせながら日本に金出しを迫り、合意すれば約束を反故にして日本人を罵倒し、自己陶酔する・・・ロシアの常套手段です。日本は下手に北方領土(北樺太を含む)開発に携わるべきではありません。


> 日本人が開拓した土地にも、思いを寄せ、荒野とならぬよう願います。
> 北方領土の開発にも(これも温浴施設とか港湾とかに偏っていますね)、本来住むべき方の気持ちを考えると、忸怩たる思いです。

私は悔しい思いで一杯ですが、多くの日本人は「千島樺太問題など、どうでもいい」と思っているのが現状です。領土に無頓着な日本人は、領土に貪欲なロシア人・中国人・朝鮮人にとって絶好のカモといえます。現在進行形で侵略の危機に瀕しているというのに、無関心を装う日本社会を憂いています。
wra #9MBBB9Tg [ 編集 ]    2016年06月09日(木) 21:42
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