8月はとにかく、戦争にまつわる記念日の多い月です。6日と9日は、それぞれ広島と長崎への原爆投下日、そして15日は終戦記念日となっています(但し正式な終戦は9月2日)。

私が育った町の小中学校では、15年前まで「出校日」というものがあって、夏休み期間中の特定日に登校するようになっていました。その日はおもに平和学習が行われ、広島・長崎に投下された原子爆弾に関する授業を受けたことを覚えています。宗像市在住の被爆者から直接話を聞いたり、原爆投下を題材にしたビデオを視聴したり、どれも幼心に衝撃を受ける内容ばかりでしたが、私たちは静かに耳を傾けながら過ごしたものです。わが宗像市では、この夏休み中の出校日は2000年代初頭に中止されましたが、一部自治体では今でも出校日を設けているようです。

原子爆弾や沖縄戦による被害は、上記のように学校教育を通して多くの子供たちに伝えられています。戦争の記憶は決して風化させてはなりませんが、その一方で、あえて風化させられようとしている戦争の記憶もあります。それが「地上戦」の記憶です。

ここで皆さんに質問です。地上戦はいったいどこで行われたでしょうか?多くの方はきっと、「沖縄だけ」と答えるに違いありません。しかし、これは事実とは異なる出鱈目です。そして同時に、地上における交戦相手は米国だけではありませんでした。これから言及するのは日本が敗戦色濃厚になった昭和20年、8月に実際に起きた出来事です。

樺太地図
▲地名入り樺太地図(国土地理院地図を筆者が加工して作成)
北海道最北端の宗谷岬に立つと、天気のいい日はうっすらと巨大な島影が見えるといいます。そのうっすらと見える島は日本列島の一員で、名を樺太(からふと)といいます。同島は北海道と同じくアイヌ文化の栄えた地域ですが、中央部から北部にかけてアイヌとは言語系統の異なる諸原住民も居住していました。

この樺太では昭和20年8月、ソ連(ロシア人)を相手に地上戦が行われました。北緯50度以南の地域は日本領として認められていましたが、あの地上戦以降、現在に至るまでソ連を継承したロシアの占領下に置かれています。「昭和20年8月の出来事」に言及する前に、まずは樺太の歴史を簡単に見てみましょう。

江戸時代と樺太―探検から開発へ

日本人と樺太の関わりが文献で確認できるのは江戸期に入ってからです。北海道は本州のすぐ北側にあるため、江戸初期にはすでに、渡島半島を中心に幕府権力が及んでいました。ところが樺太は北海道よりもさらに北側。しかも辺境に関する知識が乏しい時代ですから、陸地があることは分かっていても、それが果たして島か大陸の一部かどうかは分からない有様でした。そこで、わが先人は樺太支配に及ぶ前に、地理を把握するため上陸・探検をはじめたのです。

日本人による樺太探検は江戸初期の寛永年間(1624-45)、松前公広の命で行われたものが初出のようです。ついで1651(慶安4)年、松前藩士・蠣崎伝右衛門によって行われた探検を皮切りに、盛んに樺太調査が行われ、18世紀終盤にはついに数か所の漁場を開設するに至ります。さらにアイヌとの交易を行うため、クシュンコタン(豊原支庁大泊町楠渓町)とシラヌシ(白主:真岡支庁好仁村)に運上屋を設け、交易・税の徴収が行われました。

それでも樺太が島であるか、大陸の一部であるかどうかは分かりませんでした。歴代の探検家たちは時代を重ねるにつれ、樺太のより奥深くへと分け入りましたが、依然として全貌を掴めないままでいました。そんな中、樺太の全貌を突き止めることに成功した探検家が現れました。それが言わずと知れた間宮林蔵です。


▲宗谷岬に建つ間宮林蔵像
(フリー素材ページより引用)

18世紀後半になり、ついに江戸幕府も樺太探検に乗り出すようになりました。数回の派遣を経て1808(文化5)年、松前奉行支配調役元締・松田伝十郎と御普請役御雇・間宮林蔵の2名を樺太に派遣し、その翌年には間宮を再度派遣しました。間宮は樺太だけでなく沿海州・アムール川河口部の調査も行い、ついに樺太が島であることが証明されました。ユーラシア大陸と樺太を隔てる海峡が「間宮海峡」と呼ばれる所以はここにあります。この頃、ロシア人は樺太はおろか、アムール川河口の存在も知りませんでした。

晴れて樺太が島と判明したのもつかの間、幕府は早速樺太統治の強化に取り掛かります。まずは樺太を幕府直轄領に改め、地名を「北蝦夷」に改称して北蝦夷会所を開設した上、会津・津軽藩に樺太警備を命じました。1821(文政4)年には改めて、樺太の管轄権を松前藩に移しています。

松前藩復帰後、同藩は樺太に勤番人を派遣していました。クシュンコタンには運上所・勤番所・砲台等が、シラヌシには山丹交易会所が置かれていたといわれています。その他にも、現在の鵜城(恵須取郡)には越前大野藩の藩士や領民が移住し、会所が設けられていたとも伝えられています。

樺太を横取りしたロシア人、ついに日本人を島から追い出す

地道に樺太統治を進めてきた日本人ですが、ここで大きな障害地ぶち当たりました。それが、不凍港欲しさに南下政策を進めていた帝政ロシアの存在です。19世紀初頭から明治初頭にかけて、既にシベリアを支配下に収めていたロシアは次いで樺太を版図に収めんと動き始め、カザフステップや沿海州と同じように樺太へのロシア人入植をはじめました。既に日本人が樺太経営に乗り出しているというのに、同地を「勝手に」ロシア領と宣言してしまったのです。当然ながら、従来樺太に居住していたアイヌや「和人」等は圧迫されることになります。ここで日露間による領有権紛争の幕が切って落とされました。

日露間の国境画定は数段階に分けて行われました。まず初めに行われた画定は1855(安政元)年、日露和親条約の締結によるものでした。その結果、択捉島以南を日本領に、得撫島以北をロシア領とし、樺太には両国の国境設けず雑居地とするに至ります。こうしてついに、樺太は日露間の領有紛争地と化しました。

ところで、現在北方領土問題においてわが国が返還を主張しているのは、「北方四島」こと南千島―国後島・択捉島・色丹島・歯舞群島です。これらの返還を主張する根拠に挙げているのが、1945年に不法占拠されるまでの間、一度もロシア領に含まれなかったという点です。日露和親条約でも上記のように、択捉島以南の「四島」は日本領として認められていました。

雑居地となったのちも、樺太には日本人の手が入り続けました。1868(明治元)年には楠渓(クシュンコタン)に公議所が、地方に出張所が置かれて樺太の行政事務を担いました。「開拓使」も当初は北海道・樺太の二か所に分けて置かれていたのです。そんな中、明治維新の混乱に乗じて樺太の支配権を強化せんと、ロシア軍は函泊(大泊町内)に強行上陸を行い暴虐に走りました。

混乱に陥った樺太を立て直そうという動きはあったものの、新たに開拓使となった黒田清隆が北海道開拓を優先した結果、樺太は益々ロシアに浸食されていきました。やがて黒田は樺太放棄論を打ち出し、副島種臣による樺太買収論の建議もむなしく、1875(明治8)年にかの有名な「樺太千島交換条約」―樺太2度目の国境画定―が締結されます。これにより、樺太は全島ロシア領に、千島列島は国後島から占守島まで日本領と定まりました。

こうしてロシア人の貪欲ともいえる領土拡張欲と武力恫喝を背景に、日本は地道に育て上げた樺太を失ったのです。

樺太庁として戻ってきた「南樺太」(1905-45)


樺太を失ってから30年後、3度目となる樺太の国境画定が行われます。それが日露戦争後のポーツマス条約(1905年)です。戦役により、日本軍はすでに樺太全島を占領下に収めていました。同条約により、北緯50度以下の樺太―すなわち「南樺太」は日本領に、以北はロシア領となり、不完全ながらも日本は樺太の地を取り戻すことに成功しました。そして樺太を管轄するため、「樺太庁」が設置されます。

樺太庁設置後の南樺太(以下「樺太」)では、北海道と同じように積極的な開拓が行われてきました。法制面では台湾・朝鮮と同じ「外地」扱いながらも、行政区画名は北海道と同じ「支庁―市町村―字」で、「内地に限りなくに近い外地」という位置づけといえます。

豊富な資源に恵まれた樺太は年々人口を増やし、漁業や石炭採掘に従事するため多くの人材が集まっていました。1937(昭和12)年にはついに、樺太の中心地・豊原で初の市制が施行されています。石炭産業で栄えた結果、ついに樺太一の人口となった恵須取も本来であれば、1945(昭和20)年末に市制施行が予定されていました。

昭和10年代に入ると、いよいよ現在の国際体制につながる戦争へと突入していきます。そのような時代でも、樺太の発展は止まることなく続きました。東海岸の鉄道は敷香に至り、東西をつなぐ横断国道の整備も進むなど、不便極まりない北辺の地は交通網に組み込まれていきました。人口では遠く及ばなくても、生活環境は北海道と変わらない水準に達したのです。

やがて太平洋戦争に突入すると、日中戦争以来の総力戦体制は一層強化されていきます。内地外地をとわず、日本全土が「皇民」の名の下で平準化されようとする中、樺太は次の段階に入ります。それが樺太庁の「内地編入」です。

樺太庁の内地編入は1943(昭和18)年4月に行われました。これにともない、樺太庁鉄道・樺太鉄道の国有化が行われています。しかし、内地との完全な一元化に至ったわけではなく、地方議会は未設置のままでした。現在、多くの日本人は樺太を「外地」として認識していますが、これは正解でもあり間違いでもあります。内地編入により、樺太は段階的に内地化が進行するかと思われましたが、編入から間もない1945(昭和20)年8月9日、ついにあの日が訪れたのです。

ロシアによる二度目の「樺太掠奪」

ときは1945年8月。米軍の猛攻により日本軍は各所で追い詰められ、広島に新型爆弾が投下されるなど、敗戦不可避の状況に陥っていました。一方、ソ連とは日ソ中立条約により相互不可侵を定めていましたが、同4月にソ連は日ソ中立条約の不延長を通告しました。8月8日には対日宣戦布告を行い、翌9日から北緯50度線を越えて侵入を開始しました。また、同日には満州・朝鮮北部への侵入も開始されています。この、日ソ中立条約の不延長通告を根拠に、ソ連の侵入を擁護する意見もありますが、条約自体は1946年4月末まで有効でした。つまりソ連は条約違反をしたということです。

日本軍は国境地帯を中心に兵力を配置し、ソ連軍を迎えうつなど抗戦の構えをみせましたが、ソ連の攻撃が止まることはありませんでした。やがて日ソ間で停戦協定が結ばれるも、ソ連は協定を反故にして攻撃を続け、民間人の無差別殺戮・日本兵のシベリア強制連行(俗に言う「シベリア抑留」)におよびました。その中で、北海道占守島での戦い(占守島の戦い)をはじめ、真岡郵便局の女性職員自決、避難船「小笠原丸」沈没事件など、多くの悲劇が生み出されたのです。スターリンとしては、どうしても正式な終戦・米軍進駐を前に、約束通り樺太・千島を飲み込んでおきたかったのでしょう。ソ連による民間人大量殺戮に関しては詳細を述べたいところですが、膨大な情報量になるため、ここでは簡単な説明にとどめます。

最終的に抗戦を続けていた日本軍は武装解除を命じられ、樺太・千島両地域はソ連・ロシア人の為すがままに蹂躙されることになります。ソ連による占領が完了を迎えたのち、日本人は原住民を含め、島から強制的に追放されることになりました。一般的に「引き揚げ」と呼ばれる「南樺太」・千島からの日本人追放政策は、昭和22年から24年にかけて行われました。

こうして「南樺太」は、在日朝鮮人と極々少数の残留日本人を残して、無人の大地と化しました。その代わりに「北樺太」や大陸部から大量に流れてきたのが、征服者たるロシア人でした。ロシア人は地名を縁もゆかりもないロシア語に改め、年月をかけて開拓した農地を荒野に変え、街には無機質な集合住宅を連ね、樺太は徐々に荒れ果てた「スラブ人の島」へと変わっていきました。

戦後、サンフランシスコ平和条約により「南樺太」・千島列島の領有権を放棄させられた日本人は、狭くなった国土の中で急速な発展を遂げていきました。いわゆる「高度経済成長」です。日本が発展すればするほど、本土と「切り離された島々」の差は広がる一方で、同時に日本人の心から樺太の記憶は薄れていきました。

現代日本人の「樺太認識」を嘆く

今日、多くの日本人が「樺太」という存在に対して無頓着になっています。確かに「カラフトマス」や「樺太犬」といった固有名詞を通して、「樺太・からふと・カラフト」という言葉は生きながらえているかもしれませんが、地名としての樺太は死に絶えつつあります。マスメディアを筆頭に、現代日本人はこぞって、ロシア式名称の「サハリン」を連呼するようになりました。愚かなメディアに至っては以下のように樺太を称する始末です。

「サハリン(樺太)」
「ロシアのサハリン」
「樺太、現在のサハリン」
「サハリン(旧樺太)」
ただ単に「サハリン」・・・

ロシア語地名を用いることにより、現代日本人はロシアによる「南樺太」支配を暗に認めてしまったのです。日本人はいつから樺太をロシア領と認めたのでしょうか。確かに日本は樺太の領有権を放棄させられましたが、ロシア領とは公式には認めていないのが現状です。地図帳を見てください、なぜ北緯50度以南の樺太が白地かお判りでしょうか?南樺太が帰属未定の地と、外務省が定めているからです。メディアや少なからざる旅行ブロガーは何を勝手に、ロシア領と決めつけているのでしょうか。あまりのマゾヒズム的指向性に呆れる思いです。テレビ番組で以前、樺太残留日本人の特集が組まれているのを拝見しましたが、気分を害して視聴を止めたのは言うまでもありません。

日本人は現状を第一に考える所があります。これを美徳とすることもできますが、樺太に関しては良からぬ効果を引き起こしているといえます。「サハリン」と呼ぶことがまさに、その典型例です。現状をありのまま受け入れるのではなく、そこに至った経緯を一度考えてみる必要があります。そうすれば、もしかすると「樺太」という語の大切さに気が付くかもしれません。

また、地名には歴史があり、魂が宿っています。樺太という地名を安易に「サハリン」へと置き換えることは、歴史を自ら消していることに他なりません。今日、平成の大合併や住居表示施行・区画整理等により、多くの横文字地名が誕生しています。横文字地名の氾濫により、日本人の地名に対する思慮が麻痺していることに危惧を抱いています。このような現状と樺太の「サハリン」化は、決して無関係とはいえないのではないでしょうか。

私は北方領土の南千島―俗に言う「北方四島」返還を強く願っています。だからこそ、私は南千島という狭い範囲に限って返還交渉を進めるのは良くないと思います。現在のやり方で交渉を続けても、南千島は決して戻ってきません。貪欲でしかも現在進行形で領土拡張を進めている軍事国家ロシアに対して、控えめな交渉をしても戻ってくるはずがないのです。

以上述べてきたことを踏まえて、私は樺太という地名を使いつづけますし、北緯50度以南のロシア語地名は使いません。同時に、「南樺太」を日本という存在に結びつけて思考し続けるつもりです。

領土に貪欲な周辺諸国に領土を蝕まれつつある今日、日本人は領土保全に対する理解を深めねばなりません。過去の悲惨な事実から目をそらさず、歴史を正しく理解し、外に対して正しく危機感を持つことが真の平和につながるのではないでしょうか。

樺太・千島を失った悲しみの記憶を忘れてはいけません。「サハリン」と呼ぶなかれ。



(参考文献)
岡田耕平『樺太』、樺太通信社、1924年

福家勇『樺太とはどんな処か』、樺太日日新聞社代理部、1933年

一柳貞吉『樺太一周』、(同氏による出版)、1939年

樺太敷香時報社編『樺太年鑑.昭和13年』、樺太敷香時報社、1939年



(参考ウェブサイト)
『樺太研究室』
http://blogs.yahoo.co.jp/nihongotakeo93l929/

『オロモルフのホームページ』「ロシアの暴挙と小笠原丸の惨劇(オロモルフ)」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ogasawara_maru.htm

『『函館市志』デジタル版』「樺太・千島からの引揚げ状況」「引揚者の概況とその内訳」
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/shishi

『北方四島ポータルサイト』
http://4islands.jp




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  コメント
「出校日」は知らなかったです・・・そちら独自の習慣でしょうか?


さて、樺太は、祖父母が住んでいて、伯母、母の出生地でもあり、関心はあるのですが、拝読して初めて学んだ点もあり、御礼申し上げます。
長く名寄にいて、引き揚げ後も名寄出身者の会にいっていましたので、記念誌は持っており、一度きちんと読もうと考えております。
終戦を迎えたのは恵須取でしたが、市制施行の直前まで栄えていたとは、驚いております。
祖母らは一旦、福井県へ引き揚げたのですが、あまり詳しく語らず、ただただ寒かったことは非常に印象に残っていたようでした。
三船遭難事件などを考えると、生きて本土へ戻れたことは、運も左右したのかと思います。


豊原も、北海道本土の街に多く見られる条丁目のきれいな街並みだった様子でしたね。
名門企業もありましたが、例えば富士メガネは引き揚げで無一文からやり直したり、我々では考えられない苦労をしたことでしょう。


一度、現地を訪れ、現況を見たいと思いつつ、放棄してしまった以上旅券が必要なのかとか、わだかまりもあり、まだ来訪はしておりません。


また、中国とは領土問題を解決したのに、日本にはいやに強硬な態度を取るのにも、閉口しております。
レラティー #rcEo15nI [ 編集 ]    2016年08月09日(火) 19:40
悲しいですね
『日本が発展すればするほど、本土と「切り離された島々」の差は広がる一方』って文章が…。


もはや、領土を取り返すのは、日本単独でロシアを打ち負かし、力ずくでやるしか無さそうですが…現実的じゃないか…。


そんな状況下になる前に、世界に舐められない強い姿勢と国防を整えませんと。尖閣にちょっかい出してきてる国もありますし。


いや、まず外国に媚びるメディアと、一般人の振りした「自称」市民団体をどうにか…。


やる事が多すぎで目眩がしますねこりゃ。
焼きそば #t50BOgd. [ 編集 ]    2016年08月09日(火) 21:09
焼きそばさん
> もはや、領土を取り返すのは、日本単独でロシアを打ち負かし、力ずくでやるしか無さそうですが…現実的じゃないか…。

一番現実的なのが、ソ連との協定で約束された二島(色丹・歯舞)先行返還か、ロシアが広域戦争を起こした場合に、ロシアに対抗する勢力と同盟を組んで勝ち、新たな国際秩序の中で北千島・南樺太ごと返還させる、以上のいずれかになると思います。

欧米諸国から距離を置かれたロシアと、アジア諸国(いずれも軍事独裁国家を除く)から距離を置かれつつある中国。どちらも好戦的で領土侵略に積極的な傾向にあるにもかかわらず、国連常任理事国ということで見てみぬふりをされているのは、なんとも歯がゆいものです。


> そんな状況下になる前に、世界に舐められない強い姿勢と国防を整えませんと。尖閣にちょっかい出してきてる国もありますし。
> いや、まず外国に媚びるメディアと、一般人の振りした「自称」市民団体をどうにか…。

尖閣に対する中国の暴走が、日に日にエスカレートしているようです。こうして現在進行形で領土侵略の危機に瀕しているというのに、リベラル層を中心に危機感を抱かない連中がいる戦後日本は異常な国です。彼らはこぞって「戦後日本の平和国家体制・平和憲法を維持せよ」といいますが、現在のどこが「平和」というのでしょうか。
wra #9MBBB9Tg [ 編集 ]    2016年08月10日(水) 18:25
レラティーさん
> 「出校日」は知らなかったです・・・そちら独自の習慣でしょうか?

福岡では結構見られたようですが、全国的にはどうなんでしょうね。


> さて、樺太は、祖父母が住んでいて、伯母、母の出生地でもあり、関心はあるのですが、拝読して初めて学んだ点もあり、御礼申し上げます。
> 長く名寄にいて、引き揚げ後も名寄出身者の会にいっていましたので、記念誌は持っており、一度きちんと読もうと考えております。

樺太生まれは年々、高齢化により減少しています。今や「サハリン」を連呼して、「スラブの島」と化した現状にだけ目をやり、古い歴史を蔑ろにしている日本人の醜態を嘆くばかりです。時折樺太の地理について調べようと、最近の写真を調べるのですが、どれも「サハリン」「サハリン」と、気持ち悪い地名が並んで嫌な気分になります。敗戦国根性が染みついたのでしょうか、素直に樺太と呼べなくなった日本人・・・何とも情けないです。

樺太の記憶を引き継ぎ、後世に伝えていくのはレラティー様のような二世、三世だと思っています。私も親類に樺太生まれがいれば積極的に行動できるのですが、範囲は狭くても樺太の歴史を伝える活動に関わっていきたいものです。


> 終戦を迎えたのは恵須取でしたが、市制施行の直前まで栄えていたとは、驚いております。
> 祖母らは一旦、福井県へ引き揚げたのですが、あまり詳しく語らず、ただただ寒かったことは非常に印象に残っていたようでした。
> 三船遭難事件などを考えると、生きて本土へ戻れたことは、運も左右したのかと思います。

もしかすると、強制追放(引き揚げ)は昭和23年ごろではないでしょうか。その頃の退島は粛々と行われたようですが、終戦期の避難は命がけだったと聞いています。ソ連は避難船を蜂の巣にしただけではなく、白旗を挙げて降参に来ても暴虐を止めずに銃殺したほどですから、今も昔も変わらず野蛮ですよあの国は。


> 豊原も、北海道本土の街に多く見られる条丁目のきれいな街並みだった様子でしたね。
> 名門企業もありましたが、例えば富士メガネは引き揚げで無一文からやり直したり、我々では考えられない苦労をしたことでしょう。

雰囲気はまさに北海道の地方都市といったところだったんでしょう。戦後も日本の手にあれば、数十万規模の都市になっていたんでしょうね。樺太西線をいくキハ40の鈍行に乗ってみたかったです。


> 一度、現地を訪れ、現況を見たいと思いつつ、放棄してしまった以上旅券が必要なのかとか、わだかまりもあり、まだ来訪はしておりません。

私も樺太に入ってみたいですが、わざわざロシアにビザを発行してもらって行く(≒ロシアに「サハリン」渡航を懇願する)という屈辱は受けたくありません。おそらく私が樺太に行くことは、生涯一度もないでしょう。帰ってくるのであれば、住んでみたいですけど。


> また、中国とは領土問題を解決したのに、日本にはいやに強硬な態度を取るのにも、閉口しております。

さすがは覇権国家といったところです。領土が無駄に広く、戦後も植民地を失うことなかったし、しかもその植民地は本国に隣接している(戦前日本と同形態)・・・中露は似たり寄ったりの間柄にありますね。しかしあれでも中共は相当妥協した方だと思います。だって本音は「外満州(沿海州)欲しい!」ですからね・・・
wra #9MBBB9Tg [ 編集 ]    2016年08月10日(水) 19:08
これまでの日本政府は、wraさんご存知のように、南千島の範囲内に限って返還交渉を続けてきました。
だから2島もしくは3島返還論といった(僕に言わせれば)可笑しな話が出てくるのでしょう。

千島列島や樺太を含めた上で交渉を行わないと、南樺太プラス北方四島は戻ってこないと思います。自国の領土を取り戻そうとする気概をもった政治家や外務省の役人たちが見当たらないのは、もどかしい限りです。

北方領土から遠く離れた所にお住まいのwraさんが、強い関心を持ってくれているのは、一道民として嬉しいです。
影武者2号 #YH9wa2gA [ 編集 ]    2016年08月10日(水) 21:09
影武者2号さん
> これまでの日本政府は、wraさんご存知のように、南千島の範囲内に限って返還交渉を続けてきました。
> だから2島もしくは3島返還論といった(僕に言わせれば)可笑しな話が出てくるのでしょう。

せめて南樺太・千島全島をひっくるめて交渉対象にしておけば、向こう側も「じゃあ南千島4島で手を打とうじゃないか」と、「現状の期待」通りに交渉を進めた可能性は決してゼロじゃないでしょう。外務省の交渉音痴と戦後日本人の無知ぶりにはあきれる思いです。


> 千島列島や樺太を含めた上で交渉を行わないと、南樺太プラス北方四島は戻ってこないと思います。自国の領土を取り戻そうとする気概をもった政治家や外務省の役人たちが見当たらないのは、もどかしい限りです。

今や島民が高齢化している中、領土問題に対して関心を持たねばならないのは我々のような若年層だと思っています。しかし何と悲しいことか、北方領土問題に関しては「無駄な領土はいらない」「どうせ人が住まないのだからロシアにやったら良い」云々という主張ばかりです。今の日本人には「地政学」という三文字が頭にないのでしょう。だから、彼らは真顔で宗谷海峡を「日露国境」として認め、西能登呂岬を「クリリオン」と言ってしまうのです。


とくに残念に思えてならないのは、大多数の旅行ブロガーのもつ樺太認識です。彼らは樺太という地名を腫れ物のように扱い、「サハリン」とか「ユジノ」を正義のヒーローの類かのように思っているようでなりません。せっかく日本語地名があるのだから、それを「歴史的慣用」に基づいて使えばいいのに、「サハリン」が氾濫する現状には残念としか言いようがありません。

世界的に「Sakhalin」が通用しているからとか、そういうのは関係ないと思っています。領土問題の「当事国」だからこそ、日本人は地名に対して敏感にならねばなりません。たとえ条約に基づく放棄地であっても、やはり条約に基づき「帰属未定地」として主張する以上、樺太を適当にあしらうべきではないのです。


> 北方領土から遠く離れた所にお住まいのwraさんが、強い関心を持ってくれているのは、一道民として嬉しいです。

遠く離れているからこそ、いっそう知識を深めておかねばと思っているところです。さすがは北海道に近いだけあって、自然豊かな美しい島なんですよね。わざわざ「ビザをロシアにお願い」して渡樺するのは良心が許さないので、宗谷岬から眺めるにとどめたいと思います。
wra #9MBBB9Tg [ 編集 ]    2016年08月13日(土) 00:42
>樺太の記憶を引き継ぎ、後世に伝えていくのはレラティー様のような二世、三世だと思っています。私も親類に樺太生まれがいれば積極的に行動できるのですが、範囲は狭くても樺太の歴史を伝える活動に関わっていきたいものです。

そのためにも、貴記事から、いろいろと勉強させていただきます。


>もしかすると、強制追放(引き揚げ)は昭和23年ごろではないでしょうか。その頃の退島は粛々と行われたようですが、終戦期の避難は命がけだったと聞いています。ソ連は避難船を蜂の巣にしただけではなく、白旗を挙げて降参に来ても暴虐を止めずに銃殺したほどですから、今も昔も変わらず野蛮ですよあの国は。

昭和23年には叔母が産まれており、早期のうちに本土へ戻ったと考えられます。
祖父も軍役から復員したわけですし。
祖父母から色々お伺いしておけば良かったですが、日本が「放棄」した地について関心を持つようになった頃には進学で遠方に住む等、中々話す機会が無かったのは残念です。
史料は残してくれたはずですので、所在を確認したいものです。




>雰囲気はまさに北海道の地方都市といったところだったんでしょう。戦後も日本の手にあれば、数十万規模の都市になっていたんでしょうね。樺太西線をいくキハ40の鈍行に乗ってみたかったです。

キハ58が、JRを引退した後、樺太に渡りましたね。


さて、三船殉難事件でも、生存者がいたことには、驚いております。
http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=95677
レラティー #rcEo15nI [ 編集 ]    2016年08月16日(火) 00:51
レラティーさん
> そのためにも、貴記事から、いろいろと勉強させていただきます。

ちょうど今、樺太旧住民の体験記をWeb上を通して集めています。時間があったら、少しづつご紹介できればと考えています。


> 昭和23年には叔母が産まれており、早期のうちに本土へ戻ったと考えられます。
> 祖父も軍役から復員したわけですし。
> 祖父母から色々お伺いしておけば良かったですが、日本が「放棄」した地について関心を持つようになった頃には進学で遠方に住む等、中々話す機会が無かったのは残念です。
> 史料は残してくれたはずですので、所在を確認したいものです。

史料があれば、当時どういった事が起きたのか、より鮮明になりますね。


> キハ58が、JRを引退した後、樺太に渡りましたね。

そうでしたね~非常に懐かしいです。キハ56だったら少しは長生きしたでしょうけれど、車体が気候に合わなかったのか、短命だったのが残念です。現在では豊原かどこかに、1両保存されているみたいですよ。豊原駅構内にも、廃車体が倉庫になって現存しているとか・・・


> さて、三船殉難事件でも、生存者がいたことには、驚いております。
> http://denshobato.com/BD/N/page.php?id=95677

戦後間もないころの避難は壮絶なものだったんですね。
wra #9MBBB9Tg [ 編集 ]    2016年08月16日(火) 16:09
樺太の史料は、完成したら、お伺いしたいものです。

>> キハ58が、JRを引退した後、樺太に渡りましたね。

>そうでしたね~非常に懐かしいです。キハ56だったら少しは長生きしたでしょうけれど、車体が気候に合わなかったのか、短命だったのが残念です。現在では豊原かどこかに、1両保存されているみたいですよ。豊原駅構内にも、廃車体が倉庫になって現存しているとか・・・

本州からキハ58が譲渡された頃(冷戦崩壊で彼らが鉄道復興をしたがっていた頃)、JR北海道は、まだキハ56を現役で使っていましたからね・・・

先ほど、8月10日か11日に、北九州市で、長崎原爆の日に因んだ授業をしようとしたが、爆破予告があって中止したとか、ニュースで見ました。
「出校日」九州には存在している習慣のようですね?
レラティー #rcEo15nI [ 編集 ]    2016年08月17日(水) 19:27
レラティーさん
> 本州からキハ58が譲渡された頃(冷戦崩壊で彼らが鉄道復興をしたがっていた頃)、JR北海道は、まだキハ56を現役で使っていましたからね・・・

結局、ロシア側には軍事的な目的以外で樺太復興をする気はないようですね。軍事的な有利のために島と海峡が存在して、モスクワに従順なヒトが住んでいればそれで十分なのでしょう。戦前の写真を見た後で、近年の樺太を写した写真を見ると、えも言えぬ哀しさがこみ上げてきます。


> 先ほど、8月10日か11日に、北九州市で、長崎原爆の日に因んだ授業をしようとしたが、爆破予告があって中止したとか、ニュースで見ました。
> 「出校日」九州には存在している習慣のようですね?

夏休み中の登校日は地域によりけりといったところでしょうか。調べてみると、本州でもやっているところはやっているようですね。出校日という言い方はあまりメジャーではないようで、ただ今驚いているところです。
wra #9MBBB9Tg [ 編集 ]    2016年08月18日(木) 00:42
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