日本家屋も残っている!鹿野移民村をぶらり散策(台東県鹿野郷)
今回お送りする鹿野移民村は台湾東部、台東県鹿野(しかの)郷にあった内地人移民村のことです。
同村は旧花蓮港庁下に設置された官設移民村の吉野村・豊田村・林田村とは異なり、台東製糖株式会社による私設移民村として設置されました。大正4年から5年にかけて、新潟県から短期移民を募集し、さらに大正5年には100戸、大正7年には50戸の家屋を建設して永住移民を招致しました。
しかし、移住民は獣害や風土病等に苦しむこととなり、加えて本土の景気が良くなったことから、徐々に鹿野村の人口は減少していきました。
大正12年より方針を変え、本島人(台湾人)の移住民を募集することになり、40戸の家屋を建設しましたが、これもことごとく失敗し、本島人移住民も減少していきました。
孫借りになってしまいますが、『神社殘跡』のhank氏が鹿野村に関する論文を要約されており、鹿野村内には4つの集落(上坪・宮前・中坪・下坪)が存在していたとしています。当時の4集落が一体、どの位置に該当するかよくわからないので、地理的調査を兼ねて鹿野村を訪れました。
現在の行政区域では、駅前一帯を鹿野村、鹿野移民村があった台地一帯を龍田村と定めていますが、当記事では便宜上、前者を「麓」、後者を「鹿野村」と呼ぶことにします。
今回は台鐵鹿野駅をスタート地点に、徒歩で鹿野村を目指します。日本統治時代の街中心部は移民村周辺でしたが、現在は駅周辺が中心部です。商業施設・公共施設はこのあたりに集中しています。

駅からしばらく9号線を進むと、やがて右に分岐する坂道が見えます。郷道34号線です。この道に入って坂を上ると、その先がかつての鹿野移民村です。

▲坂を上がり鹿野村へ
鹿野村は台地上にあります。

▲郷道34号標識
鄉道東34線的標誌牌、鹿野國小和卑南溪
写真上、右側に見えるのは鹿野小のグラウンドと卑南渓です。

▲鹿野中

鹿野龍田村到了!我想這邊位日治時期的下坪部落。
鹿野村の集落に到着しました。台地の一番東側が下坪集落だったと推定しています。

下坪部落推定地在日治時期舊鹿野庄役場,庄役場相當現在鄉公所。
下坪集落推定地には、日本統治時代の鹿野庄役場がありました。近年まで荒廃していましたが、地元住民によって修復が行われ、美しい姿に生まれ変わりました。屋根がトタン葺きから、瓦葺きに復元されています。
門柱には「鹿野区役場」(鹿野庄の前身)と記されています。

舊鹿野庄役場的說明牌,併記日本年號和民國年號。我想「六埔尾」地名可能是「大埔尾」地名(是日治時期的小字之一)的錯字。
説明板は昭和と民国年号の併記です。
鹿野区が鹿野庄となったのは1937(昭和12)年のことです。幾つか地名が列記されていますが、「六埔尾」は聞いたことがありません。おそらく「大埔尾」の誤植でしょう。
月眉は戦後からの地名で、日本統治時代には月野でした。この月野地区は元々鹿野区に含まれていたようですが、1937年以降は関山庄(里壠区の後身)の大字となっています。七脚川は当時の小字名バロハイチカソワンのことでしょう。

▲旧鹿野庄役場内部
畳敷きになっています。内部からは、趣高いピアノの音色が聞こえてきました。

▲旧鹿野移民村 下坪推定地の日本家屋
内地人移民村が置かれていた鹿野村には、今も数軒の日本家屋が残されています。当時の家屋がほぼ現存しない旧旭移民村(台東県台東市)とは対称的です。

▲旧鹿野移民村 下坪推定地の日本家屋(その2)
鹿野龍田村之日式房屋,有高深屋頂
高くて深い屋根は、いかにも日本家屋らしいです。

下坪推定地を過ぎると、建物が途切れてパイナップル畑が見えてきます。現在の鹿野村では、パイナップル栽培が盛んに行われています。右にレンタサイクル店「阿度の店」が見えると、まもなく龍田小に到着です。この龍田小は日本統治時代の鹿野国民学校です。
龍田という地名は戦後、付けられたモノであるため、日本語で呼称する際は「たつた」ではなく、音読みで「りゅうでん」とするのが妥当だと思います。

▲旧鹿野託児所
原日治時期的鹿野託兒所
このように、龍田小敷地内には日本統治時代の建築物が保存されています。屋根に雑草が生えているせいか、非常に古さを感じます。

▲旧鹿野託児所説明板

▲旧鹿野国民学校校長宿舎
舊鹿野國民學校日式校長宿舎
こちらも龍田小敷地内にある建築物です。

▲旧鹿野国民学校校長宿舎 説明板
龍田小を過ぎると、再び住宅地に入ります。

▲鹿野村社・崑慈堂入口
崑慈堂位原日治時期的鹿野神社
崑慈堂はもとの鹿野村社です。かつて、鹿野移民村の鎮守として大切されていました。
戦後は基壇のみ残され、その上に涼亭が建てられていましたが、やがて基壇の老朽化により涼亭は撤去され、基壇も取り壊されようとしていました。そんな中、「史跡」の維持を求めて地元住民が立ちあがった結果、基壇のみならず、神社自体が復元されることになりました。

これから修復・再建立の工事を行うのか、基壇周辺は柵で囲まれていました。前方のトラックに積まれているのはパイナップルです。
先述の「宮前」という地名は、神社所在地によく付けられる地名で、台湾東部では他にも吉野(現:吉安)と玉里にありました。後者は今でも、原住民集落の地名として用いられています。鹿野村の宮前推定地は鹿野社一帯と見て良いでしょう。
残る中坪・上坪についてですが、今のところ前者は龍田小西側に、後者は郷道34号・龍馬路の交点付近にあったと推定しています。まだ調べが足りないので、さらに調査する必要があります。

▲鹿野村の白猫
鹿野龍田村之可愛的小白貓
鹿野村の主要な史跡物件を見終えたのち、駅前の帰りがてら、写真をいくつか撮りました。鹿野村の今と昔が同時に見えるような、美しくも重みのある一枚を求め、歩いてはスナップを繰り返します。

▲空を舞うパラグライダー

時代は変われども、鹿野村の土に開拓者の汗涙が染みついていることに変わりありません。

▲鹿野村のバナナ畑

いかにも明治以降の移民村らしい直線と、熱帯樹木の並木道が美しいです。

木造房屋埋沒灌木,黃牌所記有「本筆土地已售出,請勿憂」。
郷道34号の裏道沿いに、荒廃した木造家屋を見つけました。「売りに出したから入るな」と看板にありますが、これだけ草生していれば、雑草が天然のボディーガードを務めてくれることでしょう。
あまりの暑さにこれ以上の散策は無理と判断。撮影もほどほどに、鹿野駅へと戻りました。
撮影日:2014年7月6日
同村は旧花蓮港庁下に設置された官設移民村の吉野村・豊田村・林田村とは異なり、台東製糖株式会社による私設移民村として設置されました。大正4年から5年にかけて、新潟県から短期移民を募集し、さらに大正5年には100戸、大正7年には50戸の家屋を建設して永住移民を招致しました。
しかし、移住民は獣害や風土病等に苦しむこととなり、加えて本土の景気が良くなったことから、徐々に鹿野村の人口は減少していきました。
大正12年より方針を変え、本島人(台湾人)の移住民を募集することになり、40戸の家屋を建設しましたが、これもことごとく失敗し、本島人移住民も減少していきました。
孫借りになってしまいますが、『神社殘跡』のhank氏が鹿野村に関する論文を要約されており、鹿野村内には4つの集落(上坪・宮前・中坪・下坪)が存在していたとしています。当時の4集落が一体、どの位置に該当するかよくわからないので、地理的調査を兼ねて鹿野村を訪れました。
現在の行政区域では、駅前一帯を鹿野村、鹿野移民村があった台地一帯を龍田村と定めていますが、当記事では便宜上、前者を「麓」、後者を「鹿野村」と呼ぶことにします。
麓から鹿野村へ
今回は台鐵鹿野駅をスタート地点に、徒歩で鹿野村を目指します。日本統治時代の街中心部は移民村周辺でしたが、現在は駅周辺が中心部です。商業施設・公共施設はこのあたりに集中しています。

駅からしばらく9号線を進むと、やがて右に分岐する坂道が見えます。郷道34号線です。この道に入って坂を上ると、その先がかつての鹿野移民村です。

▲坂を上がり鹿野村へ
鹿野村は台地上にあります。

▲郷道34号標識
鄉道東34線的標誌牌、鹿野國小和卑南溪
写真上、右側に見えるのは鹿野小のグラウンドと卑南渓です。

▲鹿野中

鹿野龍田村到了!我想這邊位日治時期的下坪部落。
鹿野村の集落に到着しました。台地の一番東側が下坪集落だったと推定しています。
旧鹿野庄役場庁舎

下坪部落推定地在日治時期舊鹿野庄役場,庄役場相當現在鄉公所。
下坪集落推定地には、日本統治時代の鹿野庄役場がありました。近年まで荒廃していましたが、地元住民によって修復が行われ、美しい姿に生まれ変わりました。屋根がトタン葺きから、瓦葺きに復元されています。
門柱には「鹿野区役場」(鹿野庄の前身)と記されています。

舊鹿野庄役場的說明牌,併記日本年號和民國年號。我想「六埔尾」地名可能是「大埔尾」地名(是日治時期的小字之一)的錯字。
説明板は昭和と民国年号の併記です。
鹿野区が鹿野庄となったのは1937(昭和12)年のことです。幾つか地名が列記されていますが、「六埔尾」は聞いたことがありません。おそらく「大埔尾」の誤植でしょう。
月眉は戦後からの地名で、日本統治時代には月野でした。この月野地区は元々鹿野区に含まれていたようですが、1937年以降は関山庄(里壠区の後身)の大字となっています。七脚川は当時の小字名バロハイチカソワンのことでしょう。

▲旧鹿野庄役場内部
畳敷きになっています。内部からは、趣高いピアノの音色が聞こえてきました。
鹿野移民村の日本家屋

▲旧鹿野移民村 下坪推定地の日本家屋
内地人移民村が置かれていた鹿野村には、今も数軒の日本家屋が残されています。当時の家屋がほぼ現存しない旧旭移民村(台東県台東市)とは対称的です。

▲旧鹿野移民村 下坪推定地の日本家屋(その2)
鹿野龍田村之日式房屋,有高深屋頂
高くて深い屋根は、いかにも日本家屋らしいです。

下坪推定地を過ぎると、建物が途切れてパイナップル畑が見えてきます。現在の鹿野村では、パイナップル栽培が盛んに行われています。右にレンタサイクル店「阿度の店」が見えると、まもなく龍田小に到着です。この龍田小は日本統治時代の鹿野国民学校です。
龍田という地名は戦後、付けられたモノであるため、日本語で呼称する際は「たつた」ではなく、音読みで「りゅうでん」とするのが妥当だと思います。
旧鹿野託児所

▲旧鹿野託児所
原日治時期的鹿野託兒所
このように、龍田小敷地内には日本統治時代の建築物が保存されています。屋根に雑草が生えているせいか、非常に古さを感じます。

▲旧鹿野託児所説明板
旧鹿野国民学校校長宿舎

▲旧鹿野国民学校校長宿舎
舊鹿野國民學校日式校長宿舎
こちらも龍田小敷地内にある建築物です。

▲旧鹿野国民学校校長宿舎 説明板
龍田小を過ぎると、再び住宅地に入ります。
旧鹿野村社(のち再建)

▲鹿野村社・崑慈堂入口
崑慈堂位原日治時期的鹿野神社
崑慈堂はもとの鹿野村社です。かつて、鹿野移民村の鎮守として大切されていました。
戦後は基壇のみ残され、その上に涼亭が建てられていましたが、やがて基壇の老朽化により涼亭は撤去され、基壇も取り壊されようとしていました。そんな中、「史跡」の維持を求めて地元住民が立ちあがった結果、基壇のみならず、神社自体が復元されることになりました。

これから修復・再建立の工事を行うのか、基壇周辺は柵で囲まれていました。前方のトラックに積まれているのはパイナップルです。
先述の「宮前」という地名は、神社所在地によく付けられる地名で、台湾東部では他にも吉野(現:吉安)と玉里にありました。後者は今でも、原住民集落の地名として用いられています。鹿野村の宮前推定地は鹿野社一帯と見て良いでしょう。
残る中坪・上坪についてですが、今のところ前者は龍田小西側に、後者は郷道34号・龍馬路の交点付近にあったと推定しています。まだ調べが足りないので、さらに調査する必要があります。

▲鹿野村の白猫
鹿野龍田村之可愛的小白貓
開拓者の汗が染みつく台地は今
鹿野村の主要な史跡物件を見終えたのち、駅前の帰りがてら、写真をいくつか撮りました。鹿野村の今と昔が同時に見えるような、美しくも重みのある一枚を求め、歩いてはスナップを繰り返します。

▲空を舞うパラグライダー

時代は変われども、鹿野村の土に開拓者の汗涙が染みついていることに変わりありません。

▲鹿野村のバナナ畑

いかにも明治以降の移民村らしい直線と、熱帯樹木の並木道が美しいです。

木造房屋埋沒灌木,黃牌所記有「本筆土地已售出,請勿憂」。
郷道34号の裏道沿いに、荒廃した木造家屋を見つけました。「売りに出したから入るな」と看板にありますが、これだけ草生していれば、雑草が天然のボディーガードを務めてくれることでしょう。
あまりの暑さにこれ以上の散策は無理と判断。撮影もほどほどに、鹿野駅へと戻りました。
撮影日:2014年7月6日
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