旧通霄神社(苗栗県通霄鎮)―神苑の風格とどめる台湾西海岸の観光地
今回お送りする通霄神社は台湾西部、苗栗県通霄(つうしょう)鎮にあります。通霄は海沿いの小さな街で、台鉄海岸線(海線)が通っています。住民は台語を話す客家人―つまり「ホーローケ」が主体であるため、客家文化濃い内陸部とは若干風土が異なるようです。
通霄の街は騒がしさがなく、台湾海峡の風が爽やかで印象良い街でした。こちらには日本統治時代に神社が置かれていたわけですけれども、なんと境内が神社の雰囲気をよく保っているのです。社殿を除くと構造物が原形をよく保っており、旧桃園神社とともに、台湾を代表する旧神社として知られています。
旧神社は通霄駅から北東に歩いて5分ほどの場所にあり、交通の便は良好です。駅前から県道128号を直進し、全連福利センターのある交差点を左折して仁愛路を少し進むと、参道入口が見えてきます。入口は当時からのものではなく、つい最近になって設置されたウッドデッキタイプのものです。参道は所在地の「虎頭山」にちなんで、「虎頭山神社歩道」と呼ばれています。

▲全連福利センター付近に建つ「通霄診所」
駅前からしばらく進むと、「通霄診所」なる建物が見えてきました。通霄鎮を代表する和風建築として知られています。

▲仁愛路上にある日本家屋
状態は極めて良好です。何らかの宿舎として使用していたものでしょう。

途中で路地に入ると、今度はウッドデッキが見えてきました。そこを上がり、コンクリ舗装の参道を進んでいきます。雰囲気は神社参道の姿のまま、殆ど手を付けられておらず、歩いていて心地が良いです。1分ほど進めば、前方に神明鳥居と木造家屋が見えてきました。

▲虎頭山神社歩道入口

▲一直線に伸びる参道

旧通霄神社が見えてきました。鳥居の手前にあるのは神官宿舎でしょうか、崩落しかけた木造家屋が残存しています。
一の鳥居横には社務所があり、こちらは宿舎よりも状態が良いとはいえ、屋根が一部崩落しているなど、一刻も早い修復が必要な状況であることに変わりありません。社務所に人が出入りしていましたから、恐らくそう遠くないうちに修復作業が行われるのでしょう。

▲倒壊寸前の神官宿舎

▲旧通霄神社全景

▲削られた一の鳥居刻銘
鳥居は二基とも現存していますが、刻銘部分は表面を削られたうえに、セメントの類で荒々しく埋められています。刻銘は浅く削られているようで、セメントを取り除けばどうにか読めるかもしれません。
石灯篭の刻銘は鳥居と同じように処理されたものと、ただセメントで埋めたものと、処理されないまま原形を保っているものの計3種類ありました。一部石灯篭はセメントを取り除かれ、再び刻銘を読めるようにされています。

▲社務所全景

▲社務所を正面から

▲旧通霄神社平面図

▲歴史建築「通霄神社」説明文

▲一の鳥居をくぐり、旧神社境内へ


▲参道に建つ石灯篭全景

▲「台湾宗教百景」入選証書

▲石灯篭刻銘「酒売捌人 余金安」

▲石灯篭刻銘「通霄食塩煙草酒小売組合員一同」

▲石灯篭刻銘「苑裏山脚公学校職員児童」

▲石灯篭刻銘「苗栗郡教育会」

▲境内で遊ぶ子供たち

▲二の鳥居

▲二の鳥居を裏側から

社殿は戦後取り壊され、忠烈祠として使用するため、拝殿跡にレンガ造りの建築物が建てられました。
忠烈祠の建築は通常、廟のごとく豪華絢爛な格好をしているものですが、こちらは福建様式のシンプルなものです。ゆえに旧通霄神社は本来の雰囲気を保ち続けたのかもしれません。

▲『通霄神社重修誌』
中立・公正な史観で書かれており、中文のみですが立ち止まって読む価値はあると思います。「中国国民党」による台湾支配の開始を美化した呼称である、「光復」の二文字が一切ありません。

拝殿跡に建つ忠烈祠建築の屋根上には、「中国国民党」の紋章が付いています。

▲社殿跡から参道を眺めて

忠烈祠建築裏にも石灯篭があります。こちらの刻銘は鳥居と同じように、浅く削られた上にセメントが詰められています。

▲拝殿跡から忠烈祠建築(旧拝殿)を眺めて

▲本殿跡

▲境内横の民家に建つ石灯篭
こちらは刻銘が埋められずに残されています。
旧通霄神社一帯は戦後長らく軍用地になっていたようで、一般人が近づくことは容易ではなかったといわれています(wikipediaより引用)。在台中国人の影響力が強い軍管轄の土地だったにもかかわらず、神社付属物がほとんど破壊されなかったのは奇跡といっても過言ではありません。

▲境内でご一緒した方々
旧通霄神社は今もなお、心の安らぎと笑顔を与える場として多くの人々に愛されています。
撮影日:2015年1月16日
通霄の街は騒がしさがなく、台湾海峡の風が爽やかで印象良い街でした。こちらには日本統治時代に神社が置かれていたわけですけれども、なんと境内が神社の雰囲気をよく保っているのです。社殿を除くと構造物が原形をよく保っており、旧桃園神社とともに、台湾を代表する旧神社として知られています。
旧神社は通霄駅から北東に歩いて5分ほどの場所にあり、交通の便は良好です。駅前から県道128号を直進し、全連福利センターのある交差点を左折して仁愛路を少し進むと、参道入口が見えてきます。入口は当時からのものではなく、つい最近になって設置されたウッドデッキタイプのものです。参道は所在地の「虎頭山」にちなんで、「虎頭山神社歩道」と呼ばれています。

▲全連福利センター付近に建つ「通霄診所」
駅前からしばらく進むと、「通霄診所」なる建物が見えてきました。通霄鎮を代表する和風建築として知られています。

▲仁愛路上にある日本家屋
状態は極めて良好です。何らかの宿舎として使用していたものでしょう。

途中で路地に入ると、今度はウッドデッキが見えてきました。そこを上がり、コンクリ舗装の参道を進んでいきます。雰囲気は神社参道の姿のまま、殆ど手を付けられておらず、歩いていて心地が良いです。1分ほど進めば、前方に神明鳥居と木造家屋が見えてきました。

▲虎頭山神社歩道入口

▲一直線に伸びる参道

旧通霄神社が見えてきました。鳥居の手前にあるのは神官宿舎でしょうか、崩落しかけた木造家屋が残存しています。
一の鳥居横には社務所があり、こちらは宿舎よりも状態が良いとはいえ、屋根が一部崩落しているなど、一刻も早い修復が必要な状況であることに変わりありません。社務所に人が出入りしていましたから、恐らくそう遠くないうちに修復作業が行われるのでしょう。

▲倒壊寸前の神官宿舎

▲旧通霄神社全景

▲削られた一の鳥居刻銘
鳥居は二基とも現存していますが、刻銘部分は表面を削られたうえに、セメントの類で荒々しく埋められています。刻銘は浅く削られているようで、セメントを取り除けばどうにか読めるかもしれません。
石灯篭の刻銘は鳥居と同じように処理されたものと、ただセメントで埋めたものと、処理されないまま原形を保っているものの計3種類ありました。一部石灯篭はセメントを取り除かれ、再び刻銘を読めるようにされています。

▲社務所全景

▲社務所を正面から

▲旧通霄神社平面図

▲歴史建築「通霄神社」説明文

▲一の鳥居をくぐり、旧神社境内へ


▲参道に建つ石灯篭全景

▲「台湾宗教百景」入選証書

▲石灯篭刻銘「酒売捌人 余金安」

▲石灯篭刻銘「通霄食塩煙草酒小売組合員一同」

▲石灯篭刻銘「苑裏山脚公学校職員児童」

▲石灯篭刻銘「苗栗郡教育会」

▲境内で遊ぶ子供たち

▲二の鳥居

▲二の鳥居を裏側から

社殿は戦後取り壊され、忠烈祠として使用するため、拝殿跡にレンガ造りの建築物が建てられました。
忠烈祠の建築は通常、廟のごとく豪華絢爛な格好をしているものですが、こちらは福建様式のシンプルなものです。ゆえに旧通霄神社は本来の雰囲気を保ち続けたのかもしれません。

▲『通霄神社重修誌』
中立・公正な史観で書かれており、中文のみですが立ち止まって読む価値はあると思います。「中国国民党」による台湾支配の開始を美化した呼称である、「光復」の二文字が一切ありません。

拝殿跡に建つ忠烈祠建築の屋根上には、「中国国民党」の紋章が付いています。

▲社殿跡から参道を眺めて

忠烈祠建築裏にも石灯篭があります。こちらの刻銘は鳥居と同じように、浅く削られた上にセメントが詰められています。

▲拝殿跡から忠烈祠建築(旧拝殿)を眺めて

▲本殿跡

▲境内横の民家に建つ石灯篭
こちらは刻銘が埋められずに残されています。
旧通霄神社一帯は戦後長らく軍用地になっていたようで、一般人が近づくことは容易ではなかったといわれています(wikipediaより引用)。在台中国人の影響力が強い軍管轄の土地だったにもかかわらず、神社付属物がほとんど破壊されなかったのは奇跡といっても過言ではありません。

▲境内でご一緒した方々
旧通霄神社は今もなお、心の安らぎと笑顔を与える場として多くの人々に愛されています。
撮影日:2015年1月16日
- 関連記事
-
-
台湾の神社「鹿野村社」再建について速報
-
旧通霄神社(苗栗県通霄鎮)―神苑の風格とどめる台湾西海岸の観光地
-
疲れたけど休まない!夜の高雄をぶらり散策(高雄駅~美麗島駅~六合夜市)
-