ブログヘッダー画像
(当ブログにはプロモーションが含まれています)

開山神社跡=延平郡王祠(台南市中西区)―日台ゆかりの鄭成功をまつる

今回お送りする延平郡王祠は台湾南西部、「台湾の京都」こと台南市にあります。こちらは清初に台湾を治めた鄭成功を祀るため、彼の死後に建立されました。

日本統治時代には開山神社に改められ、廟建築を温存する形で神社へと生まれ変わりました。時の政府は日中ハーフの鄭成功をとり上げ祀ることにより、台湾と内地の繋がりをより強固なものにしようとしたのでしょう。

神社は台南州台南市開山町にあり、延平郡王・鄭成功を祭神としていました。鄭成功の没後、住民はこぞって彼の功徳を顕彰して廟を建立しました。この廟は開山王廟または開山聖王廟と称し、のちに清の光緒年間に延平郡王祠へと改称されました。

1896(明治29)年7月25日、ときの台南知県事・磯貝静蔵(原文では「磯谷」と誤植)は延平郡王祠を神社にせんと、総督府に建白した結果、同30年1月13日、県社に指定されました。

社殿は数回改築されており、最初の改築は大正4年4月に竣工。この時は神社様式と福建様式を折衷した構造を採用しましたが、1939(昭和14年)には従来の社殿に近接する場所に、純粋な神社様式の新社殿が建立されています。(台湾総督府編『台湾事情. 昭和18年版』台湾総督府官房情報課、1943年)

上述したように、廟建築には福建式を取り入れていましたが、戦後、中華民国政権の手で中国北方式の建築に建て直されてしまいました。台北城東門も元々は福建式でしたが、あちらも同じような過程で中国北方式になっています。

台南市に鎮座していた開山神社

ここ延平郡王祠には、入口から見どころがたくさんあります。地面を見ると、竿のない石灯篭が数基据え置かれていますが、これは置灯篭という少し珍しいタイプの灯篭です。火袋には開山神社の紋章が残っており、この石灯篭が日本統治時代に由来することが分かります。

台南市に鎮座していた開山神社

廟内部へと入る前に、まずは鄭成功文物間の方へ足を延ばしてみましょう。こちらにも日本統治時代の遺物を見ることができます。

北白川宮殿下御遺跡所の狛犬北白川宮殿下御遺跡所の狛犬

まず文物間入口に狛犬一対が見えます。これは北白川宮殿下御遺跡所に安置されていたもので、この御遺跡所はのちの台南神社にあたる施設です。台湾接収のため、近衛師団を率いた北白川宮能久親王が薨去した場所に建立されたため、そのように名付けられていました。

台南市に鎮座していた開山神社

文物間の建物横側に入ると、足元に石造物が数体置かれています。その中にはなんと、明神鳥居の笠木・島木部分もありました。大きな損傷はなく状態は良好です。

台南市に鎮座していた開山神社

中央で切断されているように見えますが、実は石造の明神鳥居の中には、元から笠木・島木を中央部分で二分したものが多数あります。部材の状態からして、これは意図的に切断されたものではなく、元から存在する切り跡ではないかと思いました。

台南市に鎮座していた開山神社
▲鳥居部材の中央部分、加工痕を近くで眺めて

意図的な切断がなされていたら、切断面は粗く削れているはず。しかし、これはまるで違います。切断されたのではなく、元からこのような形だという見方で良いと思います。

台南市に鎮座していた開山神社
▲鳥居部材の縁部分を眺めて

延平郡王祠の鳥居

続いて、文物間から廟内部に移動してみましょう。門から廟内部に入りたいところですが、その前に門前にそびえる牌坊に着目してみます。牌坊にしては奇妙な形をしていますね。「おや・・・これは鳥居じゃないか」という声が聞こえてきそうですが、そう考えた貴方、正解です。

延平郡王祠の鳥居を下から
▲鳥居貫部分を下から眺めて

この奇妙な形の牌坊は元をたどると神社鳥居で、一般的には台南神社の鳥居を移築・変形したものとされています(wikipediaによる)。先述の鳥居部材も台南神社にあったものかもしれません。

貫上には「中国国民党」の紋章が入っており、ここにも「中華民国すなわち中国国民党、中国国民党すなわち中華民国」という、所謂「党国体制」の名残を見ることができます。大規模な変形が行われたようで、貫と貫の間がやけに狭くなっていますが、それでも亀腹や柱に昔の名残を見てとれます。

台南市に鎮座していた開山神社

中華民国政権が台湾で行ってきた数々の悪行を反面教師とするため、台湾人はあえて「中国国民党」の紋章を残しました。ここに「真実を求める」台湾人と「都合の悪い歴史は抹消する」中国人の歴史観の違いを見て取れます。

台南市に鎮座していた開山神社台南市に鎮座していた開山神社
▲延平郡王祠の鳥居前にある石獅子

台南市に鎮座していた開山神社

鳥居と門をくぐり、廟の内部に入ってきました。先述のように、ここは戦後になって「わざわざ」北方式に建て替えられているので、歴史的な価値は随分と薄くなっています。鄭成功の座像と田川マツの位牌を見てから、庭園に移動してみましょう。

台南市に鎮座していた開山神社
▲鄭成功の座像

台南市に鎮座していた開山神社
▲延平郡王祠の境内から入口方向を眺めて

台南市に鎮座していた開山神社
▲延平郡王祠、田川マツ(鄭成功母)の位牌

台南市に鎮座していた開山神社

廟のすぐ北側にある庭園に出てきました。こちらにはナンヨウザクラが植えられており、撮影当時にはちょうど、緑色の丸い葉が木陰を作していました。

台南市に鎮座していた開山神社
▲ナンヨウザクラの木洩れ日

台南市に鎮座していた開山神社

このナンヨウザクラは説明板によると、遠く外地に赴いた日本人が故郷を想って植えたものとされています。一見すると、開山神社だったころの面影は一切消えたように見えますが、所々に日本統治時代の面影が残っていました。

撮影日:2015年1月18日
関連記事
神社台湾台南市

COMMENT

レラティー

No title

「牌坊」とは何でしょうか?
見た目、鳥居の横棒(?)が1本少ないだけじゃないか、と感じたのですが・・・
その後の「貫」という物も、ご説明いただけると幸いです。

二・二七(二・二八だと勘違いしていました)事件の説明板は日本語で書かれていますが、日本人が作成したものでしょうか?
書体を見るに、現地の方が敢えて日本人訪問者向けに作成したようにも思えますが・・・?

そういえば、台南といえば、鄭成功政権の本拠地でしたね。
以前から、鄭氏政権に関する史跡は無いのか、ずっと気になっていましたが、ちゃんと存在するんですね。

2015年04月11日(土)23:53

wra

レラティーさん

牌坊というのは中華世界で幅広くみられる、門のようなものです。牌楼と牌坊はそれぞれ似たようなもので、どちらも同じものという解釈もありますが、私は「がっしりとして強固なもの」を牌楼と、鳥居のように細長いものを「牌坊」と区別しています。

次に鳥居の部材についてですが、鳥居の上を覆っているものを笠木(明神鳥居の場合は島木も)、その下にある水平材を貫と呼びます。旧桃園神社にある残存鳥居は延平郡王祠の鳥居と同じく、笠木・島木が取り払われている明神鳥居です。笠木・島木が中央で二分割されている場合、そのまま置くと真ん中で折れてしまうので、その場合は貫の上に石材を置いて、島木・笠木を支えるようにしています。

最後に二二八事件についてですが、「二二八」で間違いありません。2月27日は同事件のきっかけとなったタバコ密売女性暴行事件があった日を指しており、翌28日以降に本格的な抗議活動が行われています。

2015年04月12日(日)21:06