東台湾・旧瑞穂村「宮の里」集落のベーハ小屋(花蓮県瑞穂郷)
東台湾の花蓮港庁・台東庁、つまり現在の花蓮・台東両県では、日本統治時代に大規模な内地人による移民が行われました。吉野・豊田・林田村に代表される官設移民村や、鹿野・旭村といった企業による私設移民村は、現代日本人の間でもよく知られています。
その一方で、「自由移民村」はあまりよく知られていません。自由移民がどこに集落をなし、その集落がどんな地名であったのか、戦前の諸史料に詳しく記載されているものの、それを改めて取り扱う日本人は残念ながら非常に少ないのが現状です。
そこで今回、東台湾の旧内地人移民村の現状について、日本語による情報量を増やす目的で花蓮県瑞穂郷を訪れました。こちらには昭和年間に自由移民村「瑞穂村」が置かれ、タバコ栽培がおこなわれていました。瑞穂村に設置された3集落「玉苑」「瑞原」「宮の里」のうち、今回は宮の里集落の現状についてお届けします。

現在、宮の里集落は温泉街になっています。温泉自体は戦前からあり、現在に至るまで「瑞穂温泉」と呼ばれ続けています。ただ、戦前の温泉旅館(現存)は山の上にある1軒のみだったようで、現在麓に広がっている温泉街は戦後以降のものです。
今や温泉街となった宮の里ですが、メインストリートから一歩外れると移民村時代の面影が色濃く残っています。

ファミリーマート前で路地に入ると、屋根が苔で覆われた煙草乾燥小屋「ベーハ小屋」が残っています。状態と形状からして、戦前ないし戦後間もない時期に建築されたものと思われます。柱や壁には木材がふんだんに使われており、コンクリートで塗り固められたようなベーハ小屋とは一線を画しています。

▲瑞穂村のベーハ小屋と筆者
ここ宮の里集落には21戸が入植していました。つまり戦前から戦後間もないころにかけて、当地には約20戸もの木造住居が立ち並んでいたということになります。

▲苔むしたベーハ小屋の屋根瓦

ベーハ小屋自体もさることながら、建物を囲む塀も趣ある木造になっています。塀の一部には詩が吹き付けてありました。

▲木造ベーハ小屋の塀に吹き付けられた詩

▲木造ベーハ小屋の塀と屋根瓦

木造ベーハ小屋の隣にも、黒トタンで覆われた古めかしい建物があります。基礎と建物の間に土台を挟んである点から思うに、こちらもやはり70年以上前に建築された可能性が強いです。

宮の里集落をさらに進むと、比較的新しい住宅も見えてきました。台湾の地方部に多いコンクリ造の一軒家ですが、屋根を見てみると、なんとベーハ小屋によく見られる「越屋根」のような形をしています。周囲の風景にあわせて、あんな形の屋根を作ったのでしょうか。気になる所です。

黒トタンに覆われたベーハ小屋が見えてきました。形状は最初の木造ベーハ小屋に近く、こちらも建築から相当な年月が経っているものと思われます。トタンを外せば、立派な木造の壁が現れるかもしれません。

▲黒トタンに覆われたベーハ小屋

途中で大きな屋根が見えてきました。気になったので近づいてみると、そこにあったのは原住民の集会所でした。

先ほども述べたとおり、宮の里には明らかに1960年代以降に建造されたベーハ小屋もあります。比較的新しい部類のベーハ小屋は、壁をコンクリートで補強しているのが特徴です。写真上のベーハ小屋は後年の改修で、越屋根を取り払ってありました。

またしても比較的新しいベーハ小屋がありました。これでは小屋というよりもむしろ、倉庫に近いです。

▲倉庫のようなベーハ小屋の越屋根

路地を抜けてメインストリートに戻ってきました。これで宮の里集落を西から東まで調べたことになります。宮の里のちょうど東端部には、「山下の厝」という温泉旅館が建っていました。旅館名になっている「山下」というのは宮の里の別名です。歴史の彼方に消え去った「宮の里」とは対照的に、別名の方は今もしぶとく生き残っています。
ここで地名について簡単な考察に入ります。今回訪れた地区の旧名は、何度も書いたように「宮の里」です。集落の真横には神社(瑞穂祠)があり、よってこのような地名が付けられたのでしょう。台湾における神社由来の地名としては他にも、「宮前」「宮下」があります。

メインストリートにもベーハ小屋が残っています。最初にご紹介した木造ベーハ小屋の近くにあり、以前は荒廃した状態で残っていました。すでに崩落していた軒先を取り壊した後も、母屋の部分だけ残存しています。
高い土台と土壁、そして木組みの構造から考えるに、このベーハ小屋も70年以上前に建てられたものでしょう。構造自体はまだ元気そうなので、ぜひとも綺麗に修復・保存されることを願っております。

▲平屋の木造家屋
宮の里には平屋の木造家屋もあります。ただし、それがいつ建築されたものかは分かりません。

▲コンクリ造のベーハ小屋
最初と同じ、ファミリーマートの前に戻ってきたところで宮の里集落の調査は終了です。ここからはさらに西へと進み、万栄郷の紅葉集落に入っていきます。

日本統治時代に「宮の里」と呼ばれていた集落の西端部は、ちょうど万栄郷の境界線に接しています。つまり、ファミリーマートのすぐ横が瑞穂郷と万栄郷の境界線ということになります。
かつての鳳林郡蕃地にあたる万栄郷に入ると、途端に原住民色が強くなってきました。このあたりはかつて「エフナン」と呼ばれており、今でも「江布南」という漢字地名として残されています。これは明らかに、日本語の発音に基づいて漢字をあてたものです。
(全て音読みで発音した場合「コウフナン」に、中国語で発音した場合「ジャンブーナン」となる)

紅葉集落を抜けると、紅葉渓を渡る紅葉大橋が見えてきました。この橋の対岸には、日本統治時代に警察の招待所として建設された紅葉温泉があります。
橋を渡った先にも集落がありますが、その地名が一体何なのかは分かりません。おそらく紅葉集落の一部に組み込まれているものと思われます。また、紅葉温泉の付近にはかつてカーシン(加星)社・ツーツクバン社という、2つの原住民集落がありました。
今回は紅葉大橋から対岸を眺めたところで、宮の里集落・紅葉集落の実地調査は終了です。
▲今回収録した動画です。
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撮影日:2017年4月2日
その一方で、「自由移民村」はあまりよく知られていません。自由移民がどこに集落をなし、その集落がどんな地名であったのか、戦前の諸史料に詳しく記載されているものの、それを改めて取り扱う日本人は残念ながら非常に少ないのが現状です。
そこで今回、東台湾の旧内地人移民村の現状について、日本語による情報量を増やす目的で花蓮県瑞穂郷を訪れました。こちらには昭和年間に自由移民村「瑞穂村」が置かれ、タバコ栽培がおこなわれていました。瑞穂村に設置された3集落「玉苑」「瑞原」「宮の里」のうち、今回は宮の里集落の現状についてお届けします。

現在、宮の里集落は温泉街になっています。温泉自体は戦前からあり、現在に至るまで「瑞穂温泉」と呼ばれ続けています。ただ、戦前の温泉旅館(現存)は山の上にある1軒のみだったようで、現在麓に広がっている温泉街は戦後以降のものです。
今や温泉街となった宮の里ですが、メインストリートから一歩外れると移民村時代の面影が色濃く残っています。

ファミリーマート前で路地に入ると、屋根が苔で覆われた煙草乾燥小屋「ベーハ小屋」が残っています。状態と形状からして、戦前ないし戦後間もない時期に建築されたものと思われます。柱や壁には木材がふんだんに使われており、コンクリートで塗り固められたようなベーハ小屋とは一線を画しています。

▲瑞穂村のベーハ小屋と筆者
ここ宮の里集落には21戸が入植していました。つまり戦前から戦後間もないころにかけて、当地には約20戸もの木造住居が立ち並んでいたということになります。

▲苔むしたベーハ小屋の屋根瓦

ベーハ小屋自体もさることながら、建物を囲む塀も趣ある木造になっています。塀の一部には詩が吹き付けてありました。

▲木造ベーハ小屋の塀に吹き付けられた詩

▲木造ベーハ小屋の塀と屋根瓦

木造ベーハ小屋の隣にも、黒トタンで覆われた古めかしい建物があります。基礎と建物の間に土台を挟んである点から思うに、こちらもやはり70年以上前に建築された可能性が強いです。

宮の里集落をさらに進むと、比較的新しい住宅も見えてきました。台湾の地方部に多いコンクリ造の一軒家ですが、屋根を見てみると、なんとベーハ小屋によく見られる「越屋根」のような形をしています。周囲の風景にあわせて、あんな形の屋根を作ったのでしょうか。気になる所です。

黒トタンに覆われたベーハ小屋が見えてきました。形状は最初の木造ベーハ小屋に近く、こちらも建築から相当な年月が経っているものと思われます。トタンを外せば、立派な木造の壁が現れるかもしれません。

▲黒トタンに覆われたベーハ小屋

途中で大きな屋根が見えてきました。気になったので近づいてみると、そこにあったのは原住民の集会所でした。

先ほども述べたとおり、宮の里には明らかに1960年代以降に建造されたベーハ小屋もあります。比較的新しい部類のベーハ小屋は、壁をコンクリートで補強しているのが特徴です。写真上のベーハ小屋は後年の改修で、越屋根を取り払ってありました。

またしても比較的新しいベーハ小屋がありました。これでは小屋というよりもむしろ、倉庫に近いです。

▲倉庫のようなベーハ小屋の越屋根

路地を抜けてメインストリートに戻ってきました。これで宮の里集落を西から東まで調べたことになります。宮の里のちょうど東端部には、「山下の厝」という温泉旅館が建っていました。旅館名になっている「山下」というのは宮の里の別名です。歴史の彼方に消え去った「宮の里」とは対照的に、別名の方は今もしぶとく生き残っています。
ここで地名について簡単な考察に入ります。今回訪れた地区の旧名は、何度も書いたように「宮の里」です。集落の真横には神社(瑞穂祠)があり、よってこのような地名が付けられたのでしょう。台湾における神社由来の地名としては他にも、「宮前」「宮下」があります。

メインストリートにもベーハ小屋が残っています。最初にご紹介した木造ベーハ小屋の近くにあり、以前は荒廃した状態で残っていました。すでに崩落していた軒先を取り壊した後も、母屋の部分だけ残存しています。
高い土台と土壁、そして木組みの構造から考えるに、このベーハ小屋も70年以上前に建てられたものでしょう。構造自体はまだ元気そうなので、ぜひとも綺麗に修復・保存されることを願っております。

▲平屋の木造家屋
宮の里には平屋の木造家屋もあります。ただし、それがいつ建築されたものかは分かりません。

▲コンクリ造のベーハ小屋
最初と同じ、ファミリーマートの前に戻ってきたところで宮の里集落の調査は終了です。ここからはさらに西へと進み、万栄郷の紅葉集落に入っていきます。
付録:万栄郷の紅葉集落を行く

日本統治時代に「宮の里」と呼ばれていた集落の西端部は、ちょうど万栄郷の境界線に接しています。つまり、ファミリーマートのすぐ横が瑞穂郷と万栄郷の境界線ということになります。
かつての鳳林郡蕃地にあたる万栄郷に入ると、途端に原住民色が強くなってきました。このあたりはかつて「エフナン」と呼ばれており、今でも「江布南」という漢字地名として残されています。これは明らかに、日本語の発音に基づいて漢字をあてたものです。
(全て音読みで発音した場合「コウフナン」に、中国語で発音した場合「ジャンブーナン」となる)

紅葉集落を抜けると、紅葉渓を渡る紅葉大橋が見えてきました。この橋の対岸には、日本統治時代に警察の招待所として建設された紅葉温泉があります。
橋を渡った先にも集落がありますが、その地名が一体何なのかは分かりません。おそらく紅葉集落の一部に組み込まれているものと思われます。また、紅葉温泉の付近にはかつてカーシン(加星)社・ツーツクバン社という、2つの原住民集落がありました。
今回は紅葉大橋から対岸を眺めたところで、宮の里集落・紅葉集落の実地調査は終了です。
▲今回収録した動画です。
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撮影日:2017年4月2日
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