霧社事件抗日記念碑(南投県仁愛郷)―中国国民党の「反日利用」に思う
事件の背景を語ると長くなるため、簡単に述べると、「内地人(日本人)による長年の蔑視・抑圧の結果、原住民セデック族の不満が頂点に達した」ことに起因するといえましょう。
台湾総督府鉄道部が発行した『日月潭と霧社』(1937年)に顛末が分かりやすく書いてあったので、抜粋したうえでご紹介します。読みやすいよう、適宜新字体・現代仮名遣いに改めています。
然るに昭和5年10月27日未明、霧社蕃中のマヘボ、ボアルン、ホーゴー、ロードフ、タロワン、スークの六社を中心とする壮丁約300人突如蜂起し、折から霧社公学校で開催の連合運動会に来集の内地人官民及児童134名と本島人2名を虐殺し、(中略)、多数の負傷者を出し駐在所の焼打掠奪等を行った。総督府は即日台中州より警備を急派し、台北台南州等からも応援隊を送り、軍部は飛行機と軍隊を応援して29日霧社を奪還した。
30日からは軍隊が第一線に立ち警察隊と協力して鎮定に当り、11月2日マヘボ社を奪取したので凶蕃はここに根拠地を失い、谷間の岩窟に逃避した。しかし尚山砲と飛行機の威力で凶蕃を制圧したので、巨魁モーナルダオは縊死を遂げ、残党また四分五裂、縊死または帰順して、さしもの事件も月余で鎮定し、12月19日に至り漸く鎮静に帰したが、之がため警官軍人等の殉職者49名、蕃人の死傷数百名に及んだ。
戦後、台湾に進駐・亡命した中華民国政権は、日本統治の否定と中華民族主義の刷り込みを行うため、様々な教育・施設建設を行ってきたことは、これまで当ブログで扱ってきた通りです。一連の刷り込み政策は、原住民社会にも及びました。その一環として、この霧社事件も利用されたのです。
今回訪れた「モーナ・ルダオ抗日記念碑」は、まさに蒋介石・中国国民党による「抗日蜂起」の賞賛が意図されていると言えます。個人的には行く気の湧かない場所でしたが、戦後台湾史に触れるためにも避けては通れないと思い、足を運ぶに至ります。

目的地のモーナ・ルダオ抗日記念碑は、霧社地区の中央部にあります。霧社の市街地は、烏渓水系(眉渓)と濁水渓水系を隔てる尾根上に伸びており、全体的に細長いのが特徴です。
霧社バス停からだと、メインストリートの省道14号に沿って南に進めば、すぐに到着します。

14号線沿いを進むと、やがて右手に白い牌坊が見えてきました。目的地のモーナ・ルダオ抗日記念碑に到着です。一帯は木々に覆われて涼しそうですが、同時に重苦しい雰囲気も感じました。
牌坊には「碧血英風」「典型足式」「永■青史」「抗暴殲仇九百人壮烈捐生長埋蒼血」等と刻まれています。中華民国42年と刻まれていることから、この牌坊は1950年代前期に建立されたことがうかがい知れます。戦後間もないこの時期、中国国民党は本土奪還を目指す一方で、体制を保持するために台湾人を完全な支配下に置かんと注力していました。
前の支配者を否定したうえで、それに抗った勢力や自らを賞賛することは、歴代中華王朝の常套手段でした。中国国民党もこれに倣い、自らの実効支配を正当化するため、日本統治の否定から入ったのでしょう。霧社事件も「反日プロパガンダ」の材料として利用されたのです。

どう見ても原住民とは無関係だろと言わんばかりの牌坊を抜けると、奥にはモーナ・ルダオの銅像と抗日記念碑が鎮座しています。記念碑の傍らでは、清掃作業員が休息を取っていました。

モーナ・ルダオ像の手前には、抗日記念碑の説明文が刻まれています。
これが設置されたのは1997年のことで、李登輝政権下とはいえ、中国国民党がかろうじて一定の力を持っていた時期です。おまけに南投県は昔から中国国民党の地盤ですから、凄まじい内容が刻まれていても不思議ではありません。とりあえず読んでみました。
モーナ・ルダオは1882年にマヘボ社で生まれ、やがて頭目に就いた。タイヤル族は祖先の教えを守り、内に対しては、タイヤルの血脈と伝統の大切さを教え諭し、外に対しては、自らの領域を犯す者を拒み続けてきた。
モーナ・ルダオは人々の期待を受けて、日本に抗うことを心に決め、1930年10月27日、部衆を率いて『霧社抗日事件』を起こし、日本人134人を殺すことで復讐した。植民政府はこれに驚き、軍・警察官・役人数千人を派遣して、霧社を制圧した。暴動を起こした部落は相次いで陥落したが、マヘボ社の岩窟に逃れ、戦いを続けた。抗日志士は堅強な意志をして敵に立ち向かうことを心に決め、死しても権力に抗うことを誓い、ついに孤立無援になると、モーナと抗日志士は自らその命を絶ち、壮絶な最期を遂げた。
(以下、説明碑建立の経緯につき略)
この石碑自体は、中華民国の実効支配下に入ってから50周年を紀念して建立されたものです。碑文の単語や文調からして、中国国民党の主張が大きく反映されているのではないかと思いました。台湾人2名が殺害された件に関しては、一切言及されていません。

また別の場所には、抗日記念碑建立までのいきさつが、写真付きで紹介されています。こちらは最近のものでしょうから、文体はマイルドですね。

同地は戦後、防空壕の建設予定地として切り開かれていました。土を掘り起こしてみると、無数の人骨が出たではありませんか。説明文によると、霧社事件に関与して逮捕された原住民が、警察側の復讐によって、秘密裏に殺害されたものとされています。
当時、台湾は中国国民党による厳格な支配下に置かれていましたから、この一件は慎重に検証しなおす必要があると思います。

よく「歴史に"たられば"は邪道だ」と言われますが、ここであえて一つ問題提起します。
もし「モーナ・ルダオ」が戦後も生き延びていたら、彼の運命はどうなっていたでしょうか。私は間違いなく、中国国民党にも同じように抗ったのではないかと思います。
この事件に関しては、原住民の不満・悲劇ばかりが引き合いに出されていますが、日本人や台湾人を殺戮した以上、一方的に美化することは避けねばなりません。両者が互いの痛みを理解してこそ、日台間の交流はいっそう深まるのではないでしょうか。
▲今回収録した動画です。
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撮影日:2019年9月17日
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