普天間宮(沖縄県宜野湾市)―日本神道と土着信仰が融合した地
沖縄県内には土着信仰と日本神道が融合した、古い神社がいくつも存在します。今回はそんな神社の一つで「琉球八社」を構成している、普天間宮(宜野湾市普天間)を訪れました。
なんと、この神社は「グジー伝説」にも深くかかわる場所だったのです。以前、那覇市桃原地区を通った際に、「普天間権現」と刻まれた鳥居の扁額を見つけました。
(関連記事)
「那覇を走った電車「沖縄電気軌道」の遺構をたずねて(儀保駅~坂下通り~安里駅)」
グジー伝説は桃原で始まり、ここ普天間で終わりを迎えたのです。

▲普天間宮入口
同神社は米軍普天間基地とキャンプ瑞慶覧に挟まれた、丘陵地帯の住宅地に鎮座しています。目の前は国道330号線と県道81号線の交差点で、交通量が多いため常に賑やかです。

▲普天間宮の隣にある普天間山神宮寺
まずは普天間宮の隣にある、普天間山神宮寺を訪れました。神仏分離前は神宮寺の別当寺だった、東寺真言宗に属する寺院です。

▲普天間宮の裏手にある古い錨
今回は自転車でここまでやってきました。普天間宮境内へと入る前に、裏手の駐車場に自転車を止めておきます。
駐車場の片隅に目をやると、謎の物体が置かれていました。正体はなんと古い錨です。海から離れたここに、どうしてこれが置かれているのでしょうか?

▲「南沖縄八景 普天間松籟」の石碑
ここから境内に入ります。参道は短く、全体的にコンパクトなのが特徴です。社殿や社務所といった建造物は、琉球伝統の様式を取り入れています。

▲手水舎

▲琉球色の濃い普天間宮社殿
赤瓦が青空に映えて美しい神社でした。写真はありませんが、社殿の裏手には普天間宮洞穴という洞窟もあり、奥宮として神聖視されています。
撮影日:2020年9月23日
普天間宮 略記
鎮座地 沖縄県宜野湾市普天間一丁目二七番一〇号
御祭神
一、熊野権現
伊弉諾尊
速玉男命
事解男命
天照大御神
家都御子神
二、琉球古神道神
日の神
竜宮神(ニライカナイ神)
普天間女神(グジー神)
天神・地神・海神
例大祭 旧暦九月十五日
御由緒
当宮は別称普天間権現ともいい、琉球八社の一つである。創建については往昔、普天間の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり、尚金福王から尚泰久王の頃(一四五〇~六〇年)熊野権現を合祀したと伝えられている。現存する古い記録には「普天間権現」碑(一五九〇年)がある。
琉球神道記(一六〇五年)琉球国由来記(一七一三年)琉球国旧記(一七三一年)にも当宮関係が記載されている。前記の琉球国神道記には「當国大社七處アリ六處ハ倭ノ熊野権現ナリ一處ハ八幡大菩薩也」又「普天間権現の事」については「濫觴亦知ラス、熊野ノ飛瀧ト見ユ東ニ當リテ瀑布アリ、其水霊也・・・・」と、祭神のことが記されている。
尚、普天間宮は熊野那智(飛瀧)に末吉宮を熊野新宮に、識名宮を熊野本宮に見立てて信仰されていたようである。
さらに、近世沖縄における熊野三山いわゆる権現信仰は琉球八社の内の七社はもとより、その分社、あるいはビジュル・観音・霊石信仰とも習合しながら県内広域に伝播し、拝所としても数多くある。
当宮の縁起伝承には首里桃原に女神が出現され、後に普天間宮の洞窟に籠られた。さらにその後、洞窟より仙人が現れ「我は熊野権現なり」と御神威弥高に示された。又、中城間切安谷屋村の百姓夫婦や美里間切東恩納村の「当ノ屋(屋号)」に黄金(神徳)を授け苦難をすくったという伝承があり、「当ノ屋」ではそのお礼参りが続いている。
旧暦九月は普天間参詣と称され、かつては中山王の御参詣をはじめノロ、一般の人々が各地より参集し礼拝の誠を捧げた。王様の参詣道が昭和七年に国指定天然記念物「宜野湾並松」として指定されたが戦災と戦後の松食の被害を受け消失した。
洞窟は、全長二八〇メートルあり、洞窟の形成規模等からして地域の地形地史を知るうえでも貴重なものである。洞穴及び東洞口付近は遺跡となっており沖縄貝塚時代前期後半以降(約三千年前)の遺物が多数発掘されている。又、約二万年前の琉球鹿、琉球昔キョン、イノシシなどの化石も発見され「普天間宮洞穴」は平成三年八月一日付で、宜野湾市文化財「名勝」に指定される。
鎮座地 沖縄県宜野湾市普天間一丁目二七番一〇号
御祭神
一、熊野権現
伊弉諾尊
速玉男命
事解男命
天照大御神
家都御子神
二、琉球古神道神
日の神
竜宮神(ニライカナイ神)
普天間女神(グジー神)
天神・地神・海神
例大祭 旧暦九月十五日
御由緒
当宮は別称普天間権現ともいい、琉球八社の一つである。創建については往昔、普天間の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり、尚金福王から尚泰久王の頃(一四五〇~六〇年)熊野権現を合祀したと伝えられている。現存する古い記録には「普天間権現」碑(一五九〇年)がある。
琉球神道記(一六〇五年)琉球国由来記(一七一三年)琉球国旧記(一七三一年)にも当宮関係が記載されている。前記の琉球国神道記には「當国大社七處アリ六處ハ倭ノ熊野権現ナリ一處ハ八幡大菩薩也」又「普天間権現の事」については「濫觴亦知ラス、熊野ノ飛瀧ト見ユ東ニ當リテ瀑布アリ、其水霊也・・・・」と、祭神のことが記されている。
尚、普天間宮は熊野那智(飛瀧)に末吉宮を熊野新宮に、識名宮を熊野本宮に見立てて信仰されていたようである。
さらに、近世沖縄における熊野三山いわゆる権現信仰は琉球八社の内の七社はもとより、その分社、あるいはビジュル・観音・霊石信仰とも習合しながら県内広域に伝播し、拝所としても数多くある。
当宮の縁起伝承には首里桃原に女神が出現され、後に普天間宮の洞窟に籠られた。さらにその後、洞窟より仙人が現れ「我は熊野権現なり」と御神威弥高に示された。又、中城間切安谷屋村の百姓夫婦や美里間切東恩納村の「当ノ屋(屋号)」に黄金(神徳)を授け苦難をすくったという伝承があり、「当ノ屋」ではそのお礼参りが続いている。
旧暦九月は普天間参詣と称され、かつては中山王の御参詣をはじめノロ、一般の人々が各地より参集し礼拝の誠を捧げた。王様の参詣道が昭和七年に国指定天然記念物「宜野湾並松」として指定されたが戦災と戦後の松食の被害を受け消失した。
洞窟は、全長二八〇メートルあり、洞窟の形成規模等からして地域の地形地史を知るうえでも貴重なものである。洞穴及び東洞口付近は遺跡となっており沖縄貝塚時代前期後半以降(約三千年前)の遺物が多数発掘されている。又、約二万年前の琉球鹿、琉球昔キョン、イノシシなどの化石も発見され「普天間宮洞穴」は平成三年八月一日付で、宜野湾市文化財「名勝」に指定される。
なんと、この神社は「グジー伝説」にも深くかかわる場所だったのです。以前、那覇市桃原地区を通った際に、「普天間権現」と刻まれた鳥居の扁額を見つけました。
(関連記事)
「那覇を走った電車「沖縄電気軌道」の遺構をたずねて(儀保駅~坂下通り~安里駅)」
グジー伝説は桃原で始まり、ここ普天間で終わりを迎えたのです。

▲普天間宮入口
同神社は米軍普天間基地とキャンプ瑞慶覧に挟まれた、丘陵地帯の住宅地に鎮座しています。目の前は国道330号線と県道81号線の交差点で、交通量が多いため常に賑やかです。

▲普天間宮の隣にある普天間山神宮寺
まずは普天間宮の隣にある、普天間山神宮寺を訪れました。神仏分離前は神宮寺の別当寺だった、東寺真言宗に属する寺院です。

▲普天間宮の裏手にある古い錨
今回は自転車でここまでやってきました。普天間宮境内へと入る前に、裏手の駐車場に自転車を止めておきます。
駐車場の片隅に目をやると、謎の物体が置かれていました。正体はなんと古い錨です。海から離れたここに、どうしてこれが置かれているのでしょうか?

▲「南沖縄八景 普天間松籟」の石碑
ここから境内に入ります。参道は短く、全体的にコンパクトなのが特徴です。社殿や社務所といった建造物は、琉球伝統の様式を取り入れています。

▲手水舎

▲琉球色の濃い普天間宮社殿
赤瓦が青空に映えて美しい神社でした。写真はありませんが、社殿の裏手には普天間宮洞穴という洞窟もあり、奥宮として神聖視されています。
宜野湾市指定名勝
普天間宮洞穴
平成三年八月一日 指定
琉球石灰岩層に形成された全長およそ二八〇メートルの横穴洞穴で、主洞口を東にして西方向へ延びている。洞穴の開口部は二か所にあり、主洞口は石灰岩の崖の中腹、他の一つは洞壁が崩壊してできたものである。
洞穴の内部は、途中二か所ほど天井も低く幅も狭いところがあるが、平均して天井の高さは四~六メートル、幅は一~三メートルあり、十分た立って歩ける広さである。洞内には、広い場所が三か所ある。その一つは、奥宮になり、広場のうち最も大きく幅一五メートル、天井の高さ六メートルである。他の一つは、奥宮からおよそ八〇メートル奥の所である。そこに石柱があり、これが洞穴全体を支えているかのようである。
洞穴の入り口に近いところの洞壁には、連続している三つの細長い溝のようなものが見られる。これは洞穴ノッチである。つまり、洞穴の中を流れる水によって浸食されてできたものである。これが洞壁の高さの異なる地点にあるということは、洞穴内の水位が次第に下がるなど何らかの地殻変動があったことを物語る科学上の重要な証拠である。
また、洞穴の入口付近には、数万年前に絶滅したシカ類を含む厚い化石層がある。化石は、リュウキュウジカやリュウキュウムカシキョンで、二〇〇頭以上も発掘されている。化石は洞内にも散在し、さらに、土器も発見され遺跡にもなっている。
平成四年三月
宜野湾市教育委員会
普天間宮洞穴
平成三年八月一日 指定
琉球石灰岩層に形成された全長およそ二八〇メートルの横穴洞穴で、主洞口を東にして西方向へ延びている。洞穴の開口部は二か所にあり、主洞口は石灰岩の崖の中腹、他の一つは洞壁が崩壊してできたものである。
洞穴の内部は、途中二か所ほど天井も低く幅も狭いところがあるが、平均して天井の高さは四~六メートル、幅は一~三メートルあり、十分た立って歩ける広さである。洞内には、広い場所が三か所ある。その一つは、奥宮になり、広場のうち最も大きく幅一五メートル、天井の高さ六メートルである。他の一つは、奥宮からおよそ八〇メートル奥の所である。そこに石柱があり、これが洞穴全体を支えているかのようである。
洞穴の入り口に近いところの洞壁には、連続している三つの細長い溝のようなものが見られる。これは洞穴ノッチである。つまり、洞穴の中を流れる水によって浸食されてできたものである。これが洞壁の高さの異なる地点にあるということは、洞穴内の水位が次第に下がるなど何らかの地殻変動があったことを物語る科学上の重要な証拠である。
また、洞穴の入口付近には、数万年前に絶滅したシカ類を含む厚い化石層がある。化石は、リュウキュウジカやリュウキュウムカシキョンで、二〇〇頭以上も発掘されている。化石は洞内にも散在し、さらに、土器も発見され遺跡にもなっている。
平成四年三月
宜野湾市教育委員会
撮影日:2020年9月23日
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