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徐福公園(和歌山県新宮市)―紀伊半島にも残る「徐福伝説」

JR新宮駅前から歩いてすぐの場所に、徐福公園と呼ばれる一角があります。

徐福といえば日本各地に伝説を残した人物じゃないですか。九州だと佐賀県の「徐福伝説」が良く知られています。

ここ和歌山県新宮市にも、徐福にまつわる伝承が今に残っています。これを記念して、ときの紀州藩主・徳川頼宜の命によって「徐福の墓」が建立されました。徐福公園にはその墓碑や、昭和15年に建立された顕彰碑が鎮座しています。

和歌山県新宮市徐福公園
▲徐福公園入口の牌坊

徐福墓畔とその界隈

中国・秦の時代始皇帝の名で渡来したとされる徐福は、熊野の地に、捕鯨を始めたなど、多くの起源伝承を残している。実在したとされる徐福の渡来地伝承は、全国に点在するが、何せ紀元前の話。江戸時代紀州初代藩主徳川頼宜の命で建てられた徐福の墓は、墓として存在するのは全国でここだけ。徐福墓畔も栄枯盛衰を重ねるが、新宮鉄道が開設され、新宮駅ができると、この界隈も大正中期から次第に新開地となってゆく。

佐藤春夫の父が界隈に家を建て、春夫の姪がここから新宮高等女学校に通い始め、春夫もここで過ごしたり、執筆したりすることも増えてくる。春夫に「若草の妻とこもるや徐福町」の句があり、春夫の中学時代以来の友人奥栄一など文学仲間の溜まり場にもなる。


和歌山県新宮市徐福公園
▲徐福の顔出しパネル(にスッポリ入った徐福像)

和歌山県新宮市徐福の墓
▲江戸期に建立された「徐福の墓」

新宮市指定文化財
徐福の墓
指定年月日 昭和42年(1967)1月17日
高さ 1.4m

紀ノ川流域で産出する緑色片岩の自然石に「秦徐福之墓」と刻まれている。

この墓碑は、初代紀州藩主徳川頼宜が建立を企て、儒臣李梅渓に書かせたもの、との伝えがある。『熊野年譜』には「天文元年(1736)楠藪へ秦徐福の石塔立」とあり、約100年の後に建立が実現した。

かたわらの「秦徐福顕彰碑」は、天保5年(1834)藩の儒臣仁井田好古の撰・書により建立されるものであったが、和歌山より運搬の途中海難にあい実現しなかった。現在の碑は、残されていた書によって昭和15年(1940)に建てられたものである。

平成14年(2002)4月

新宮市教育委員会
新宮市商工観光課


和歌山県新宮市徐福公園
▲徐福像と不老の池

秦の徐福の碑 意訳

後の人が昔のことを思い見るのは、丁度月夜に遠方を望みみるようなものである。そこに何かがあることはわかっていても、その形がはっきりしない。形がはっきりしなくてもそこに何かがあることは事実である。

徐福が熊野に来たということも、それと同じで、詳細はわからないが、来たことは確かである。

中国の秦の歴史にこう書いてある。「斉の国の人、徐巿らが秦の始皇帝に『海の向うに蓬莱、方文、えい州という仙人の住む三つの島があります。そこに行って、不老不死の薬を探し求めて参りましょうか。』申上げたところ、皇帝は喜んで徐巿に船を与え、子供を大勢つれさせその仙薬を探しに行かせたというのである。

この徐市とは徐福のことである。その他多くの中国の史書にも大体同じようなことが書かれている。仙人の島のあるという中国東方の海上といえば、日本以外にはない。

日本でも古来、蓬莱といっている所は、富士山、熊野、熱田などがある。地形から考えると熊野は日本本州の南端で太平洋に突き出ている。風と海流によって中国の船が熊野浦によく漂着することから思うと、蓬莱とは熊野に違いない。

熊野の新宮の地には徐福の祠、徐福の墓、その墓のそばには七塚がある。七塚は徐福の一番信頼していた家来の墓だという。或いは徐福がその故国から持って来た物を埋めているのだともいう。

昔、ある人が七塚を掘りかえしたところ、日本のものでないような数個の器物が出て来たので珍しがって自分のものにした。するとその家族が急に気が変になったので恐ろしくなり、その器物を皆もとのところに埋めたということである。

日本の書物を調べてみると、長寛勘文には「大昔、大台山から来朝した王子信の旧蹟がある」と記し、また「漢の将軍の嫡子直俊が熊野権現の榎の下に移し迎えた」とも記し、また「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江の斉主が船で来る途中暴風雨にあって船がこわれ、やっと七人だけが助かった。その中の三人は船を作って本国へ帰ったが、四人は留って神につかえ、魚を釣って来ては熊野権現に供えた。その子孫はとうとう新宮に住みついて繁昌した。」とも書いてある。

これらの話はそれぞれ違っているが、外国人が来朝したという点だけは一致している。思うに徐福が秦の国を去ったのは、わが国の七代孝霊天皇の時に当る。中国・日本両国の史伝ではその渡来の年代や人数に多少のくいちがいがあるが、大昔のことはすべてぼうとしていて誰にもその詳しいことはわからない。月夜に遠方を望むことはこのことだ。

当時、日本にはまだ文字がなかった。漢字が伝わり、文字がかけるようになったころには、古代のことははっきりわからなくなっていた。書物によって名前が合わなくてもそれらは、皆徐福をさしているのである。徐福の子孫は平和を愛した祖先の理想に生き、神につかえて繁栄した。二千百余年後の今日まで世は移り変ったが、墓を守り祖先を祭りつづけて来たのは、まことに立派である。

ああ、徐福は秦の国政が乱れ、人民がしいたげられた時、その魔手を逃れるため道教を研究し仙術を修行する方士となり、それでも身辺の危険を感ずると「東海に仙人の住む三つの島がある」と進言し、平和な楽しい国に行こうと謀った。彼は早くから東方君子国の存在を知っていたのである。

孔子は「道理の行われない嫌な世には筏に乗って海外に行こう」と言ったが、徐福は孔子の気持を実行したのである。

中国の戦国時代に魯中連という人は「秦がもし天下の政権を握るようなことがあったらすぐ私は東海に身をなげて死ぬ。私はどうしても秦の民となることはできぬ。」とはげしい口調で言った。世人は魯中連の精神に感動し、その言葉を小気味よいと思った。しかし彼はただこう言っただけで実行しなかった。この魯中連を、秦から遠く清らかな世界に逃去ることを実行した徐福に比べると月とすっぽんほど違う。

秦朝幾億万の人間の中に一人として徐福以上の高潔な精神をもち偉大な実行をした人はない。後世の愚かな歴史家達はこの点を理解できず、徐福を単なるほらふきの方士に過ぎぬと悪口をいうのは残念である。

江戸時代、桜町天皇の元文元年(一七三六)、新宮城主水野忠昭が墓を立てさせたが、表彰する碑文がなかった。それから百年後の今年、仁孝天皇の天保五年私が藩命を受けて熊野を巡り徐福の故事をさぐった。はっきり残っているこの遺蹟を世に広く知らさねばならぬと思ってこの碑文を作ったしだいである。

ああ、広い世界に多くの国々が対立している。幾千年の後にまた蓬莱の島をたずねてくる人があったら、ここに来て、この碑文を呼んでください。


秦の王様、乱暴で人民どもを苦しめる。蝉や小鳥は飛んで逃げ哲人徐福は船出する。

楽しい国よこの熊野、ここが本当の蓬莱だ。人の情も温かく子孫代々栄え行く

徐福の墓はいつきても花や線香が絶えやせぬ。遠い異国の人も来て見よ、美しい山や河



撮影日:2021年3月
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