岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会(第1回目)【4/1大泊~30シラオロ】
何を血迷ったのか、ロシアのプーチン大統領は2月末に、隣国ウクライナへの軍事侵攻を命じました。民間人への容赦ない攻撃も行われ、犠牲者は日増しに増えるばかりです。
核攻撃を厭わないプーチンの姿勢を見てか、ウクライナのNATO非加盟を理由にしてか、西側諸国は参戦をひかえ、経済制裁によってロシアに対峙しています。そんな中で、僕は改めて北方領土、とくに樺太の存在を思い出していました。
歴史をさかのぼること70数年前。
1945年8月9日に当時のソ連は一方的に条約を破り、北方領土(南樺太・千島列島)への侵攻を開始しました。とくに樺太での戦闘はすさまじく、多くの民間人が犠牲となり、生き残った住民もソ連側の不法占拠(実効支配)に伴い、抑留・追放を余儀なくされています。

▲樺太全図(地名は国境地点と1945年時点における樺太庁市町村)
あれから長い年月が経ち、樺太返還運動はとうに廃れ、かろうじて領有権を主張する千島最南部の「四島」もまた、忘却されようとしています。
SF講和条約で日本が放棄した南樺太・北千島も帰属未定ながら、返還運動が潰えたのをいいことに、日本社会からの抹殺がはじまりました。マスコミはこぞってロシア語地名の「サハリン」を使い、帰属未定にもかかわらず、完全にロシアの一地方として扱う始末です。もはや、北緯50度線には何もひかれていません。
日本は一応自由の国ですから、樺太史に関する文献・資料へのアクセスは、しようと思えばいくらでも可能ですが、専門的知識がない限り、進んで閲覧しようとは思わないでしょう。
そうなると、学校教育に頼るしか術無き状況ですが、こちらにも期待はできません。だからこそ、僕はブログで拙い文章を打ち、全北方領土問題への啓発を進めているのですが、残念ながら理解者は少数に留まります。
さらなる啓発を目指すべく、樺太千島交換条約前(江戸・明治初期)の文献にあたってみました。幕末維新期の樺太で活動した人物に岡本監輔(文平)がいます。幕末に樺太北部を巡検し、間宮林蔵ですら成し遂げていない樺太一周を成功させたほか、多くの民俗資料・地理情報を記録しました。樺太問題を知るうえで、のちの露領(北緯50度以北)に対する理解・知識を深めることが重要だと思い、岡本が著した旅行記『窮北日誌』を読むことにした次第です。
この文章は漢文で記されており、適宜レ点・返り点が置かれているものの、読みやすさよりも文体の美しさを意識したのか、異体字だらけでメチャクチャ読みづらいです。現代に用いない熟語も多く、中国古典からの引用ではないかと思う表現も散見されます。
ざっくばらんに書き下しているため、誤記だらけかもしれません。その辺に関してはどうかご容赦願います。
さて北樺太といえば、樺太千島交換条約以来のロシア領であり、その地名はロシア風に表記されていることが多いですが、岡本や間宮林蔵といった探検家によって、本来の地名・発音が記録されました。これら「北樺太の日本語地名」があまり知られていないのは、なんとも残念なことです。
そんな北部を含む樺太全体を巡検すべく、岡本は西村伝九郎(のち利光)とともに、箱館の奉行所に伺いを立てました。元治元年ことです。このとき、シラオロという土地に仮住まいしていますが、巻頭地図からして、位置は現在でいう白浦(白縫村)の模様。伺いを立てたのち、太泊(大泊)で返答を待ちました。
翌慶応元年3月24日、3隻の漁船が返答の文を持参してきました。「岡本文平と戌卒某(西村)が樺太巡検を願う件については、統治の助けになるので、その志を評したい。その方の申請を許可する。奥地に行く際に失敗する者が多いと聞く。誓書を認めよ。」と書いてあります。
誓書の一件はちょっと分かりづらいですが、「やりすぎは禁物だぞ」という一種の念押しでしょう。一連のやり取りには難解な言い回しが多く、完全には理解不能でしたが、巡検とは直接関係しないため、ここでは深く掘り下げないことにします。
西村はおそらく「公儀や世間から反発が出そうだ」とでも言ったでしょう。半未開の奥地に巡検するわけですから、懸念する人はいそうですね。岡本の覚悟を知った古橋は、彼らの巡検に理解を示したようです。

▲今回登場する巡検ルート(赤矢印)を記した地図
本図は『窮北日誌』中の地図を復元したもの
湖上の氷は融けておらず、歩いて渡れる厚さで残っています。残雪上を歩くため、かんじきを履いて移動しました。そして出発から8日後、小田﨑(=小田寒)に到着します。
さすがに北海道よりも北にあるため、4月になっても残雪が多いようです。はたして、現在はどうなっているのやら。
結局動き出したのは、それから20日後のことでした。
この後の文章には、シラオロでの長期滞在中に現地ガイドの確保も行ったことが記されています。次回はそこから読み進めたいと思います。
核攻撃を厭わないプーチンの姿勢を見てか、ウクライナのNATO非加盟を理由にしてか、西側諸国は参戦をひかえ、経済制裁によってロシアに対峙しています。そんな中で、僕は改めて北方領土、とくに樺太の存在を思い出していました。
【本文を読む前に】あまりにも残念過ぎる北方領土問題
歴史をさかのぼること70数年前。
1945年8月9日に当時のソ連は一方的に条約を破り、北方領土(南樺太・千島列島)への侵攻を開始しました。とくに樺太での戦闘はすさまじく、多くの民間人が犠牲となり、生き残った住民もソ連側の不法占拠(実効支配)に伴い、抑留・追放を余儀なくされています。

▲樺太全図(地名は国境地点と1945年時点における樺太庁市町村)
あれから長い年月が経ち、樺太返還運動はとうに廃れ、かろうじて領有権を主張する千島最南部の「四島」もまた、忘却されようとしています。
SF講和条約で日本が放棄した南樺太・北千島も帰属未定ながら、返還運動が潰えたのをいいことに、日本社会からの抹殺がはじまりました。マスコミはこぞってロシア語地名の「サハリン」を使い、帰属未定にもかかわらず、完全にロシアの一地方として扱う始末です。もはや、北緯50度線には何もひかれていません。
日本は一応自由の国ですから、樺太史に関する文献・資料へのアクセスは、しようと思えばいくらでも可能ですが、専門的知識がない限り、進んで閲覧しようとは思わないでしょう。
そうなると、学校教育に頼るしか術無き状況ですが、こちらにも期待はできません。だからこそ、僕はブログで拙い文章を打ち、全北方領土問題への啓発を進めているのですが、残念ながら理解者は少数に留まります。
さらなる啓発を目指すべく、樺太千島交換条約前(江戸・明治初期)の文献にあたってみました。幕末維新期の樺太で活動した人物に岡本監輔(文平)がいます。幕末に樺太北部を巡検し、間宮林蔵ですら成し遂げていない樺太一周を成功させたほか、多くの民俗資料・地理情報を記録しました。樺太問題を知るうえで、のちの露領(北緯50度以北)に対する理解・知識を深めることが重要だと思い、岡本が著した旅行記『窮北日誌』を読むことにした次第です。
この文章は漢文で記されており、適宜レ点・返り点が置かれているものの、読みやすさよりも文体の美しさを意識したのか、異体字だらけでメチャクチャ読みづらいです。現代に用いない熟語も多く、中国古典からの引用ではないかと思う表現も散見されます。
ざっくばらんに書き下しているため、誤記だらけかもしれません。その辺に関してはどうかご容赦願います。
樺太探索の許しを得る
余の柯太に赴くや、まさに全嶌の形勢を探りて、国家の大計を陳せむとす。
元治紀元甲子、白漘(シラオロ)に仮住し、戌卒 西村伝九郎と状を奏し之を函府に請ふ。
退きて命を太泊に待つ。
明年慶応乙丑三月二十四日、漁舟三隻 府報を齎(もたら)し、来りて曰く「岡本文平戌卒某と全嶌を行(みちや)るを請うこと、是れ政躰を稗益するは、其の志 嘉すべし。特議 其の請ふ所を允(ゆ)るす。奥地を行く者 多く過挙有るを聞く。宜く誓書を致すべし」と。
時に中土 事多(まさ)るも、屯戌 員少なし。
調役古橋忠 此を以て余に尼(なず)む。
余 肯んぜず、遂に誓書を呈して曰く、「もし、漂流して鄂彊に到るも、苟も国家の法令を守らざる者、海のごとく有らん」と。
忠も亦た余が志を感じ、敢て復た言はず。
独り伝九郎が「公事鞅掌衆議或は異同有らん」と恐る。
古橋氏の手書に衆を諭し、衆の敢て支吾せざらんを請ふ。
元治紀元甲子、白漘(シラオロ)に仮住し、戌卒 西村伝九郎と状を奏し之を函府に請ふ。
退きて命を太泊に待つ。
明年慶応乙丑三月二十四日、漁舟三隻 府報を齎(もたら)し、来りて曰く「岡本文平戌卒某と全嶌を行(みちや)るを請うこと、是れ政躰を稗益するは、其の志 嘉すべし。特議 其の請ふ所を允(ゆ)るす。奥地を行く者 多く過挙有るを聞く。宜く誓書を致すべし」と。
時に中土 事多(まさ)るも、屯戌 員少なし。
調役古橋忠 此を以て余に尼(なず)む。
余 肯んぜず、遂に誓書を呈して曰く、「もし、漂流して鄂彊に到るも、苟も国家の法令を守らざる者、海のごとく有らん」と。
忠も亦た余が志を感じ、敢て復た言はず。
独り伝九郎が「公事鞅掌衆議或は異同有らん」と恐る。
古橋氏の手書に衆を諭し、衆の敢て支吾せざらんを請ふ。
■解説
書き下し文の地名には下線を引いています。さて北樺太といえば、樺太千島交換条約以来のロシア領であり、その地名はロシア風に表記されていることが多いですが、岡本や間宮林蔵といった探検家によって、本来の地名・発音が記録されました。これら「北樺太の日本語地名」があまり知られていないのは、なんとも残念なことです。
そんな北部を含む樺太全体を巡検すべく、岡本は西村伝九郎(のち利光)とともに、箱館の奉行所に伺いを立てました。元治元年ことです。このとき、シラオロという土地に仮住まいしていますが、巻頭地図からして、位置は現在でいう白浦(白縫村)の模様。伺いを立てたのち、太泊(大泊)で返答を待ちました。
翌慶応元年3月24日、3隻の漁船が返答の文を持参してきました。「岡本文平と戌卒某(西村)が樺太巡検を願う件については、統治の助けになるので、その志を評したい。その方の申請を許可する。奥地に行く際に失敗する者が多いと聞く。誓書を認めよ。」と書いてあります。
誓書の一件はちょっと分かりづらいですが、「やりすぎは禁物だぞ」という一種の念押しでしょう。一連のやり取りには難解な言い回しが多く、完全には理解不能でしたが、巡検とは直接関係しないため、ここでは深く掘り下げないことにします。
西村はおそらく「公儀や世間から反発が出そうだ」とでも言ったでしょう。半未開の奥地に巡検するわけですから、懸念する人はいそうですね。岡本の覚悟を知った古橋は、彼らの巡検に理解を示したようです。
4/1~9 氷雪を歩いて東海岸に出る
四月初一日、西南風、天色朗晴。
早に太泊を発す。
舟 箭のごとし。
午牌小実に到る。
二日、二湖を過ぐ。
凌牀なり。
厚氷を渉り、唱市(トンナイチャ)に到る。
五日、嶌子谷(シュマコタン)に到る。
残雪 未だ消せず、橇を履きて過ぐ。
七日、侶礼(ロレイ)に到る。
九日、小田﨑(オタサン)に到る。
早に太泊を発す。
舟 箭のごとし。
午牌小実に到る。
二日、二湖を過ぐ。
凌牀なり。
厚氷を渉り、唱市(トンナイチャ)に到る。
五日、嶌子谷(シュマコタン)に到る。
残雪 未だ消せず、橇を履きて過ぐ。
七日、侶礼(ロレイ)に到る。
九日、小田﨑(オタサン)に到る。
■解説
巡検は4月1日にはじまりました。太泊を出発後、小実から山を越えて唱市(=富内)に向かい、そこから東海岸を北上する行程をとります。
▲今回登場する巡検ルート(赤矢印)を記した地図
本図は『窮北日誌』中の地図を復元したもの
湖上の氷は融けておらず、歩いて渡れる厚さで残っています。残雪上を歩くため、かんじきを履いて移動しました。そして出発から8日後、小田﨑(=小田寒)に到着します。
さすがに北海道よりも北にあるため、4月になっても残雪が多いようです。はたして、現在はどうなっているのやら。
4/10~30 数十日の足止めを食らう
十日、雪雨(ふ)る。
海風 凛然として昏黒なり。
白漘に達し、伝九郎を見て行を議す。
吏議果て、未だ洽(あまね)からず、淹留す。
三十日、事 始めて決す。
乃ち共に同じく行く。
海風 凛然として昏黒なり。
白漘に達し、伝九郎を見て行を議す。
吏議果て、未だ洽(あまね)からず、淹留す。
三十日、事 始めて決す。
乃ち共に同じく行く。
■解説
岡本が仮住まいを置くシラオロに到着後、一行は同地にしばらく滞在しています。雪交じりの雨が降り、波浪はげしく天気も悪いため、じっと様子見しようと考えたのでしょう。結局動き出したのは、それから20日後のことでした。
この後の文章には、シラオロでの長期滞在中に現地ガイドの確保も行ったことが記されています。次回はそこから読み進めたいと思います。
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