岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会(第3回目)【5/11チカヒルウシナイ~14敷香】
樺太北部をフィールドワークした岡本監輔の旅行記『窮北日誌』を読む会。3回目となる今回は、岡本一行が鮇拾間(チカヒルウシナイ:近幌)を発つシーンから始めていきます。

▲今回読み進める行程(赤矢印が巡検ルート)
このあたりで岡本一行は鯨の大群に遭遇しました。潮を吹く様子が見えるぐらいですから、かなり間近で見たのでしょう。ここで岡本は樺太の水産資源の多さについて考察し、捕鯨の重要性を説いています。
穂焼(のちの帆矢向)をへて藻泊(=元泊)に到着したところで、1日を終えた模様。
あまりの絶景に岡本は感激し、なぜこの地に日本人が住まないのか、残念がっています。少しの不便も許容できない現代日本人からすれば、岡本の心境はとても理解できないかもしれません。彼はおそらく、日本人が住むことで実効支配の証になると考えたうえで、そう書いたのだと思います。当時の樺太は日露雑居の地でした。
一行はさらに進み続け、シャコタン(柵丹)に到達したところで1日を終えました。ここでついに、ツングース系のオロッコ人(ウィルタ)に遭遇します。樺太北部の香りが漂い始めてきました。
岡本はかつて、樺太中部の山間に住居を構えんとしていました。その候補地をいくつか絞り、第一を鷺毛川(対毛川)流域、第二を苗万(のちの内路)としました。さすがに奥地すぎたのか、周囲の反対を受け、第二希望の苗万に家を造ることになり、役所からその資金を得ました。大泊役人の水上重太夫も岡本に協力し、「もし資金が足りないようであれば追加投入する」と言います。そして岡本は建設予定地に標柱を立てました。
話を戻します。左側の風景に目をやると、山脈の連なるさまが美しく、岡本絶賛の光景が広がっていました。今でも根本的な美しさは変わっていないでしょう。その美しい環境を活かすも殺すも、統治者次第です。
敷香に到着して宿舎に落ち着き、岡本は漢詩を2つ認めています。いずれも五言律詩の体裁をとるもので、岡本自身の志と決意が込められているようです。
今回は敷香に着いたシーンで終わりたいと思います。次回からはしばらくの間、北知床半島(多来加・散江方面)の旅行記が続く予定です。北知床でのフィールドワークが結構長いんだよなぁ...。

▲今回読み進める行程(赤矢印が巡検ルート)
5/11チカヒルウシナイ~藻泊
十一日、果(は)じめ晴る。西風あり。
上辰 突岨(トツソ)を過ぎ、上午 蒔子谷(マクンコタン)に到る。
巨鯨 隊を成すを見る。其の幾千尾を知らず。
天を仰ぎ潮を吐く。飛沫の迸散すること、白雨の暴(にわ)かに至るがごとし。
或は背を沙上に曝し、時を移し徐(ゆるや)かに去る者有り。真に奇観と為す。
蓋し北海の鯨魚多きこと、■此の地のみならず。
もし西海の捕鯨法に倣ひて之を獲らば、其の利 唯だ鰊・鮭・鱒に倍するのみならざらんや。
末牌穂焼(ホヤンケ)を過ぎ、藻泊に到る。
上辰 突岨(トツソ)を過ぎ、上午 蒔子谷(マクンコタン)に到る。
巨鯨 隊を成すを見る。其の幾千尾を知らず。
天を仰ぎ潮を吐く。飛沫の迸散すること、白雨の暴(にわ)かに至るがごとし。
或は背を沙上に曝し、時を移し徐(ゆるや)かに去る者有り。真に奇観と為す。
蓋し北海の鯨魚多きこと、■此の地のみならず。
もし西海の捕鯨法に倣ひて之を獲らば、其の利 唯だ鰊・鮭・鱒に倍するのみならざらんや。
末牌穂焼(ホヤンケ)を過ぎ、藻泊に到る。
■解説
この日は伝九郎の願いどおり、好天に恵まれたようです。突岨を過ぎて午前中のうちに蒔子谷まで到達しました。この蒔子谷は現在の馬群潭にあたる地名です。このあたりで岡本一行は鯨の大群に遭遇しました。潮を吹く様子が見えるぐらいですから、かなり間近で見たのでしょう。ここで岡本は樺太の水産資源の多さについて考察し、捕鯨の重要性を説いています。
穂焼(のちの帆矢向)をへて藻泊(=元泊)に到着したところで、1日を終えた模様。
5/12藻泊~シャコタン
十二日、天気昨のごとし。
橿穂(カシボ)を過ぎ農塚(ノツカ)山を望む。樹木蓊然たり。
植子谷を過ぎ尻捉(シリトル)に到る。山色明秀たり。人の目 怡(よろこ)び、心 流(の)び、塵思 頓(とみ)に銷(け)せしむ。但だ山水の美 此のごとくなるも、未だ一人来て卜居するもの有らざるを憾む。
余 嘗て天下を行き其の各土の風を察す。平安のごときは水清く、山秀で、風景極めて佳麗と為すも、人の心 織嗇にして、大国の風無し。浪華は則ち俗にして、江戸は則ち粗く、皆 人意に慊(あき)たらず。
窃(ひそか)に思ゆ、我が郷の楽しきに如くは莫しと。余は阿波の人なり。郷の三谷と為し、山に倚(よ)りて邑を成す、谷邃(おくぶか)く、峯秀て、老木千章あり。蒼翠の蔚然たること、青霄を凌ぐ。殆ど都会の未だ有らざる所なり。
平生 此を以て自負すれども、北海に航し雄城(オショロ)・大樽間(オタルナイ)等の山川を覧るに及びては、則ち夾然自失せり。嶌内諸処を閲するに及びて、益ます其の勝 人の意表に出るを覚ゆ。国家もし余をして素志を達するを得せしめば、則ち此に老死すと雖も、亦た遺憾は無し。
晩に鸝鴣谷(シャコタン)に到り宿す。小六子夷を見る。
橿穂(カシボ)を過ぎ農塚(ノツカ)山を望む。樹木蓊然たり。
植子谷を過ぎ尻捉(シリトル)に到る。山色明秀たり。人の目 怡(よろこ)び、心 流(の)び、塵思 頓(とみ)に銷(け)せしむ。但だ山水の美 此のごとくなるも、未だ一人来て卜居するもの有らざるを憾む。
余 嘗て天下を行き其の各土の風を察す。平安のごときは水清く、山秀で、風景極めて佳麗と為すも、人の心 織嗇にして、大国の風無し。浪華は則ち俗にして、江戸は則ち粗く、皆 人意に慊(あき)たらず。
窃(ひそか)に思ゆ、我が郷の楽しきに如くは莫しと。余は阿波の人なり。郷の三谷と為し、山に倚(よ)りて邑を成す、谷邃(おくぶか)く、峯秀て、老木千章あり。蒼翠の蔚然たること、青霄を凌ぐ。殆ど都会の未だ有らざる所なり。
平生 此を以て自負すれども、北海に航し雄城(オショロ)・大樽間(オタルナイ)等の山川を覧るに及びては、則ち夾然自失せり。嶌内諸処を閲するに及びて、益ます其の勝 人の意表に出るを覚ゆ。国家もし余をして素志を達するを得せしめば、則ち此に老死すと雖も、亦た遺憾は無し。
晩に鸝鴣谷(シャコタン)に到り宿す。小六子夷を見る。
■解説
この日の天候も晴れでした。温泉のある橿穂(=樫保)、さらに植子谷(=遠古丹)を経て、尻捉(=知取)に到ります。あまりの絶景に岡本は感激し、なぜこの地に日本人が住まないのか、残念がっています。少しの不便も許容できない現代日本人からすれば、岡本の心境はとても理解できないかもしれません。彼はおそらく、日本人が住むことで実効支配の証になると考えたうえで、そう書いたのだと思います。当時の樺太は日露雑居の地でした。
一行はさらに進み続け、シャコタン(柵丹)に到達したところで1日を終えました。ここでついに、ツングース系のオロッコ人(ウィルタ)に遭遇します。樺太北部の香りが漂い始めてきました。
5/13藻泊~苗万
十三日、天気 昨のごとし。
午牌、子谷岸(コタンケシ)に憩ひ、晩に苗万(ナヨロ)に到る。苗万、子谷岸と相距ること四五里。其の間、山脉綿亘 極めて秀麗と為し、山下 陡然に広坦なり。
余謂ふ、敷香は実に胸腹の地を為すと。然れども其の水 未だ吾人に適さず。もし此の地を経営せんと欲せば、則ち苗万山を択き占居するに如くは無し。
嘗て敷香河源に家せんと請ひしに、庁議 河源及び其の傍地を卜せんことを許し、経営費四十余金を給せらる。水上某 素と工事に慣たり。余に謂ひて曰く「子が為に屋を造るがごとし。三十五金ありても足らん。其の足らざるは、吾能く之を補はん。」と。遂に酒井氏の漁夫五人及び蝦夷二人を僦(やと)ひ、某に付して之を造るも、工 未だ竣らず。此の行有りては、定めて苗万を以て住居の処と為す。将に工竣るを待ちて其の材を此に移さんとす。
余嘗て奥地の勝を論じ、鷺毛隖(ロモオ)を推して第一と為す。某等の異議を如(いかん)もすること無く、已を得ず其の次を取るのみ。因て木を白ちて之に書して曰く、「此より方百間、岡本某在住の処」と。蓋し某の誤認せざらんことを欲するなり。
午牌、子谷岸(コタンケシ)に憩ひ、晩に苗万(ナヨロ)に到る。苗万、子谷岸と相距ること四五里。其の間、山脉綿亘 極めて秀麗と為し、山下 陡然に広坦なり。
余謂ふ、敷香は実に胸腹の地を為すと。然れども其の水 未だ吾人に適さず。もし此の地を経営せんと欲せば、則ち苗万山を択き占居するに如くは無し。
嘗て敷香河源に家せんと請ひしに、庁議 河源及び其の傍地を卜せんことを許し、経営費四十余金を給せらる。水上某 素と工事に慣たり。余に謂ひて曰く「子が為に屋を造るがごとし。三十五金ありても足らん。其の足らざるは、吾能く之を補はん。」と。遂に酒井氏の漁夫五人及び蝦夷二人を僦(やと)ひ、某に付して之を造るも、工 未だ竣らず。此の行有りては、定めて苗万を以て住居の処と為す。将に工竣るを待ちて其の材を此に移さんとす。
余嘗て奥地の勝を論じ、鷺毛隖(ロモオ)を推して第一と為す。某等の異議を如(いかん)もすること無く、已を得ず其の次を取るのみ。因て木を白ちて之に書して曰く、「此より方百間、岡本某在住の処」と。蓋し某の誤認せざらんことを欲するなり。
■解説
引き続き好天のもと、午前中に子谷岸(=古丹岸)、晩に苗万(=内路)まで到達しました。苗万~子谷岸の間は4~5里離れていたと記録しています。岡本はかつて、樺太中部の山間に住居を構えんとしていました。その候補地をいくつか絞り、第一を鷺毛川(対毛川)流域、第二を苗万(のちの内路)としました。さすがに奥地すぎたのか、周囲の反対を受け、第二希望の苗万に家を造ることになり、役所からその資金を得ました。大泊役人の水上重太夫も岡本に協力し、「もし資金が足りないようであれば追加投入する」と言います。そして岡本は建設予定地に標柱を立てました。
話を戻します。左側の風景に目をやると、山脈の連なるさまが美しく、岡本絶賛の光景が広がっていました。今でも根本的な美しさは変わっていないでしょう。その美しい環境を活かすも殺すも、統治者次第です。
5/14苗万~敷香
十四日、敷香に到る。午後東風にして微雨なり。乃ち宿す。
詩を賦し志を言ひて曰く、
三面青山聳へ
迤邐翠黛新たに
昿野数十里
泱漭垠を見ず
一水は北東より
一水は西北より
二水合流の処
耕渙 貨殖すべし
誰か知らん洪基を立つに
急務 辺■に在らんと
男児 見る所有り
敢て機宜を陳せむと欲す
中原 陽九に会ふ
孤忠 表するに由無し
空く卜居の志を懐(も)ち
且(しばら)く後人の紹を俟(ま)つ
詩を賦し志を言ひて曰く、
三面青山聳へ
迤邐翠黛新たに
昿野数十里
泱漭垠を見ず
一水は北東より
一水は西北より
二水合流の処
耕渙 貨殖すべし
誰か知らん洪基を立つに
急務 辺■に在らんと
男児 見る所有り
敢て機宜を陳せむと欲す
中原 陽九に会ふ
孤忠 表するに由無し
空く卜居の志を懐(も)ち
且(しばら)く後人の紹を俟(ま)つ
■解説
4月14日、岡本一行はついに南樺太北部の要所・敷香に到達します。前日まで好天が続いていましたが、この日は午後から小雨が降りました。敷香に到着して宿舎に落ち着き、岡本は漢詩を2つ認めています。いずれも五言律詩の体裁をとるもので、岡本自身の志と決意が込められているようです。
今回は敷香に着いたシーンで終わりたいと思います。次回からはしばらくの間、北知床半島(多来加・散江方面)の旅行記が続く予定です。北知床でのフィールドワークが結構長いんだよなぁ...。
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