岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会(第6回目)【5/28歴背床~29茨冨間】
樺太北部をフィールドワークした岡本監輔の旅行記『窮北日誌』を読む会。6回目となる今回は、岡本一行が歴背床近辺を発つシーンから始めていきます。
この辺りから進路は南に変わり、そのまま北知床岬に向かうルートを取ります。

▲今回読み進める行程(赤矢印が巡検ルート)
しばらく進むと、鰊がよく獲れるという父国に到達します。ウィルタ人ガイドの志那古奴は先行していた模様。彼と合流したのち、さらに進んで散麻へ。今でいう散江のあたりでしょう。
湖があって周囲の山々が低くなると、まもなく北知床半島の先端部です。蒸日(地図上の虫火)に到達したところで、岡本は志那古奴にたずねました。「盤香の人間が真知床より先に行かないのは本当か?」と。
志那古奴はこれを否定したうえで知人を例に出し、「彼(知人)の場合、ガイドになるのを忌避して『真知床よりも先は知らない』と言いますね。」と返しました。
この会話を踏まえ、岡本は「北知床半島より先の把握・開発を思いとどまるのは如何なものか(超意訳)」と述べています。前例がないからと何もやらないのは、確かによくないことですし、戦後日本社会のあり方にも通じる問題点だと思います。
伝九郎の白鳥狩りに同行して山に登ると、弓状の海岸線が見えました。先端部には香部岬(遠友岬)・真知床岬(北知床岬)がそれぞれ突き出しています。
ようやく北知床半島の先端部に到達したところで、今回の解説を終えたいと思います。
まだ50度線すら越えていませんが、あと少しの辛抱です。しかし、悪天候が岡本一行の歩みを邪魔するのでした...。
この辺りから進路は南に変わり、そのまま北知床岬に向かうルートを取ります。

▲今回読み進める行程(赤矢印が巡検ルート)
5/28 歴背床~蒸日
二十八日、濃霧四塞たり。
南行すること三里ばかり、石壁峭削たり。
瀑有りて焉に■。状 缶簾のごとく、瑟を戛するがごとし。
海面の礁石 点々にして露髻たり。
過ぎて此の山勢 漸く低く、汀沙平布にして礁石連亘たり。
二里ばかりして小河有るを父国(カリクニ)と為す。河傍 舟を泊すべし。
春夏の交、鰊有ること極めて夥しと云~。
行きて志那古奴と会し、散麻(チルアサ)に到る。
湖有り南北に延び、此より南行して東するは二里許、地 漸く低く、遂に平陂と為る。
天 稍(ようや)く晴る。舟中の四望 豁然たり。
東方に山有り。山下の残雪瞪瞪にして日光倒射せり。是を蒸日(ムシビ)と為す。文化中、間宮林蔵が経歴せし所なり。実に此に止(とど)まると云~。
湖有り。南北一里許、東西十町に盈(み)たず。
東に沙丘の堤のごとくなる有り。草色 葱然たり。
志那古奴 之を指して曰く「吾が儕(ともがら)の真知床に赴く帰途、必ず此に由る。」と。
余 因て問ふ、「盤香人の自ら言ふ、真知床を踰(こ)へざるは信なるや。」と。
志那古奴曰く「非なり。彼 人の郷導を命ずるを慮る。故に知らずと為すのみ。中国人 彼を見る毎~、酒を賜ふも吾が儕を問はず。今、此のごときなるは如何ん。」と。
遂に湖に循(めぐ)りて行き、海上に出づ。
歩きて之を計るに、広さ僅かに五十間なり。
其の最高の処 二丈に過ぎず、湖西は尤も狭く、尤も庳(ひく)し。
余 乃ち大ひに盤香夷を罵り、且つ「古来の志士 未だ曽て此の地に至る者有らざるを嘆す。」と。
因て謂ふ、「苟も千金を抛(なげう)ち之を疏鑿せば、則ち旬日にして其の功を畢るべし。然る後も大艦の通過碇泊すること、自由ならざるは無し。世の奥地を拓かんと欲するも真知床を慮る者は、宜しく首(むか)ひて是事を議すべきや。」と。
南行すること三里ばかり、石壁峭削たり。
瀑有りて焉に■。状 缶簾のごとく、瑟を戛するがごとし。
海面の礁石 点々にして露髻たり。
過ぎて此の山勢 漸く低く、汀沙平布にして礁石連亘たり。
二里ばかりして小河有るを父国(カリクニ)と為す。河傍 舟を泊すべし。
春夏の交、鰊有ること極めて夥しと云~。
行きて志那古奴と会し、散麻(チルアサ)に到る。
湖有り南北に延び、此より南行して東するは二里許、地 漸く低く、遂に平陂と為る。
天 稍(ようや)く晴る。舟中の四望 豁然たり。
東方に山有り。山下の残雪瞪瞪にして日光倒射せり。是を蒸日(ムシビ)と為す。文化中、間宮林蔵が経歴せし所なり。実に此に止(とど)まると云~。
湖有り。南北一里許、東西十町に盈(み)たず。
東に沙丘の堤のごとくなる有り。草色 葱然たり。
志那古奴 之を指して曰く「吾が儕(ともがら)の真知床に赴く帰途、必ず此に由る。」と。
余 因て問ふ、「盤香人の自ら言ふ、真知床を踰(こ)へざるは信なるや。」と。
志那古奴曰く「非なり。彼 人の郷導を命ずるを慮る。故に知らずと為すのみ。中国人 彼を見る毎~、酒を賜ふも吾が儕を問はず。今、此のごときなるは如何ん。」と。
遂に湖に循(めぐ)りて行き、海上に出づ。
歩きて之を計るに、広さ僅かに五十間なり。
其の最高の処 二丈に過ぎず、湖西は尤も狭く、尤も庳(ひく)し。
余 乃ち大ひに盤香夷を罵り、且つ「古来の志士 未だ曽て此の地に至る者有らざるを嘆す。」と。
因て謂ふ、「苟も千金を抛(なげう)ち之を疏鑿せば、則ち旬日にして其の功を畢るべし。然る後も大艦の通過碇泊すること、自由ならざるは無し。世の奥地を拓かんと欲するも真知床を慮る者は、宜しく首(むか)ひて是事を議すべきや。」と。
■解説
この日は濃霧が立ち込める中、出発しました。海岸線には岩が目立ち、沿岸には滝が流れ落ちている個所もあります。海面に目をやると、礁石がいくつも露出していました。しばらく進むと、鰊がよく獲れるという父国に到達します。ウィルタ人ガイドの志那古奴は先行していた模様。彼と合流したのち、さらに進んで散麻へ。今でいう散江のあたりでしょう。
湖があって周囲の山々が低くなると、まもなく北知床半島の先端部です。蒸日(地図上の虫火)に到達したところで、岡本は志那古奴にたずねました。「盤香の人間が真知床より先に行かないのは本当か?」と。
志那古奴はこれを否定したうえで知人を例に出し、「彼(知人)の場合、ガイドになるのを忌避して『真知床よりも先は知らない』と言いますね。」と返しました。
この会話を踏まえ、岡本は「北知床半島より先の把握・開発を思いとどまるのは如何なものか(超意訳)」と述べています。前例がないからと何もやらないのは、確かによくないことですし、戦後日本社会のあり方にも通じる問題点だと思います。
5/29 蒸日~茨冨間
二十九日、天気温和なること中土暮春の候のごとし。
上辰、志那古奴等と同じくし、蒸日を発し晩に茨冨間(パラトンナイ)に到る。
約(およそ)十二三里、岡陵の参差なること断続す。
五葉松茂生す。長きは五六尺、矮きは尺に盈たず。
地勢 到処尽く方様を成す。
漸く南、漸く東、茨冨間より蒸日を望むに、正に亥子の中位に在り。
中間 蒸日を距ること里強なるを新歴鹿(アタラベシカ)と為す。
小岬より岸下、石多く、殆ど足を容れず。
岸上の平陵、五葉松多し。一望するに蒼然たり。
四里許なるを新歴井(アレテッペイ)と為す。
小湖三つ有り。湖南の山勢隆起、草樹の繍錯 美観と為す。
五里強なるを択向(エンルムカ)と為す。
海面に二礁石有り。相距ること数十歩。其の間深きは二仭余、以て繋泊すべし。
此れより南、水色澄澈 鑑みるべくして、敷香以来の見る所に比せず。
蓋し敷香の傍近、皆な濁流多し。
此の間、河湖相錯(まじわ)る。水極めて清絶なればなり。
申牌、伝九郎の白鳥を銃穫するに、同して山に登る。山の高さ数丈。南望するに海湾弓のごとし。
一線邐迤たるを香部(カバシベ)岬と為し、東南頗る高し。
一庁削るがごときを真知床岬と為す。
地勢南北数里、西より東に至る。
約十町許遥かに、洋中の白波震蕩にして岸下帖全たるを認む。
其の暗礁の碍る所と為るを知るなり。
此の処、旧(もと)蝦夷村落と為す。
墳墓有りて率兜婆を建てしに、魯人の此に来りしより、皆な焚く灰と為る、と云ふ。
上辰、志那古奴等と同じくし、蒸日を発し晩に茨冨間(パラトンナイ)に到る。
約(およそ)十二三里、岡陵の参差なること断続す。
五葉松茂生す。長きは五六尺、矮きは尺に盈たず。
地勢 到処尽く方様を成す。
漸く南、漸く東、茨冨間より蒸日を望むに、正に亥子の中位に在り。
中間 蒸日を距ること里強なるを新歴鹿(アタラベシカ)と為す。
小岬より岸下、石多く、殆ど足を容れず。
岸上の平陵、五葉松多し。一望するに蒼然たり。
四里許なるを新歴井(アレテッペイ)と為す。
小湖三つ有り。湖南の山勢隆起、草樹の繍錯 美観と為す。
五里強なるを択向(エンルムカ)と為す。
海面に二礁石有り。相距ること数十歩。其の間深きは二仭余、以て繋泊すべし。
此れより南、水色澄澈 鑑みるべくして、敷香以来の見る所に比せず。
蓋し敷香の傍近、皆な濁流多し。
此の間、河湖相錯(まじわ)る。水極めて清絶なればなり。
申牌、伝九郎の白鳥を銃穫するに、同して山に登る。山の高さ数丈。南望するに海湾弓のごとし。
一線邐迤たるを香部(カバシベ)岬と為し、東南頗る高し。
一庁削るがごときを真知床岬と為す。
地勢南北数里、西より東に至る。
約十町許遥かに、洋中の白波震蕩にして岸下帖全たるを認む。
其の暗礁の碍る所と為るを知るなり。
此の処、旧(もと)蝦夷村落と為す。
墳墓有りて率兜婆を建てしに、魯人の此に来りしより、皆な焚く灰と為る、と云ふ。
■解説
この日は穏やかな天気の下、北知床半島を南下して茨冨間(=原戸)にむかいました。半島の先端付近には五葉松が生い茂っています。敷香付近は濁流が多いため、半島先端部の方が澄んだ水に恵まれている模様。伝九郎の白鳥狩りに同行して山に登ると、弓状の海岸線が見えました。先端部には香部岬(遠友岬)・真知床岬(北知床岬)がそれぞれ突き出しています。
ようやく北知床半島の先端部に到達したところで、今回の解説を終えたいと思います。
まだ50度線すら越えていませんが、あと少しの辛抱です。しかし、悪天候が岡本一行の歩みを邪魔するのでした...。
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