岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会(第8回目)【閏6/2~4 真知床岬】
樺太北部をフィールドワークした岡本監輔の旅行記『窮北日誌』を読む会。8回目となる今回は、岡本一行が真知床(北知床岬)近辺に滞在する3日分を読み進めていきます。

▲今回の巡検ルート(赤丸が読み進める範囲)
志那古奴はロシア艦隊が北知床半島に到達したときの騒動を口にしました。そのうち一隻が父国に来たのを、村人は攻撃しようとしましたが、ロシア人は銃でこれを脅します。これには為すすべなく、村人たちは後に退きました。
この時、ロシア人は山靼(アムール川河口一帯)に進出していました。彼らは物品と引き換えに先住民の子弟を連れ帰り、ロシア語を教えさせました。ある程度成長したのを見計らい、元の村に帰すこともある一方で、志那古奴いわく、拉致されたまま帰ってこないニブフ人もいるとのこと。
あれから150年たった今も、ロシア人は根本的に変わっていません。ウクライナ南東部のマリウポリ等で起きているウクライナ人拉致・強制連行を想起させる記述です。
周囲の岸壁を見ると、鴎が大群をなしています。
この地にはすでに日本人が到達を記念して、一本標柱を立てていました。その文字は大半が消えかけ、朽ちようとしています。安政年間に到達した川上氏が建てたものでした。
岡本が把握している限りにおいて、北知床岬に到達した日本人はわずか数人に過ぎなかったようです。歴史に「たられば」は邪道ですが、もし最上徳内や近藤重蔵の志が受け入れられ、北方開発が積極的に進められていたら、状況はまた一つや二つ違っていたでしょう。
午後の晴れ間を見て、岡本は伝九郎と周吉を連れ、北知床岬周辺のフィールドワークを行います。膝上まで濡れながら、磯伝いに進みました。岸壁を見上げると、鴎の巣や卵が見えます。
ここで鴎を撃つと、一発で2~3羽にあたりますが、その多くが岩の隙間に墜ちてしまい、捕獲できたのは4羽のみでした。
といったところで、8回目を終えたいと思います。いまだ北知床半島から抜け出しておらず、なかなか北緯50度線を越えません。はたして、いつになったら動けるのでしょうか。

▲今回の巡検ルート(赤丸が読み進める範囲)
6/2 志那古奴とロシアの事を談ず
二日、陰雨なり。志那古奴とともに魯西亜の事を談ず。
志那古奴曰く「十年前、魯人此に来る。大艦あり。其の最も大なるは、五帆檣を植つ。一隻進みて父国に抵る。当時我が属、まさに之を殲さんとす。魯人、銃を以て之を擬す。我が属懼れて去る。聞く、魯人山靼に居る。諸物を齎し土人に仮し、多く童子を挈(たずさ)へて、帰り教ふるに文字を以てす。曰く、之を暴するに非ざるなり。まさに其の長するを待ちて之を帰さんとす、と。嘗て肉分人を拘へて去る。今に至るまで、未だ放し帰さず。」と。
之を言ふに太息するのみ。
志那古奴曰く「十年前、魯人此に来る。大艦あり。其の最も大なるは、五帆檣を植つ。一隻進みて父国に抵る。当時我が属、まさに之を殲さんとす。魯人、銃を以て之を擬す。我が属懼れて去る。聞く、魯人山靼に居る。諸物を齎し土人に仮し、多く童子を挈(たずさ)へて、帰り教ふるに文字を以てす。曰く、之を暴するに非ざるなり。まさに其の長するを待ちて之を帰さんとす、と。嘗て肉分人を拘へて去る。今に至るまで、未だ放し帰さず。」と。
之を言ふに太息するのみ。
■解説
岡本はこの日、ウィルタ人従者の志那古奴とロシアのことについて話しました。天気は雨ということで、移動はしなかった模様。志那古奴はロシア艦隊が北知床半島に到達したときの騒動を口にしました。そのうち一隻が父国に来たのを、村人は攻撃しようとしましたが、ロシア人は銃でこれを脅します。これには為すすべなく、村人たちは後に退きました。
この時、ロシア人は山靼(アムール川河口一帯)に進出していました。彼らは物品と引き換えに先住民の子弟を連れ帰り、ロシア語を教えさせました。ある程度成長したのを見計らい、元の村に帰すこともある一方で、志那古奴いわく、拉致されたまま帰ってこないニブフ人もいるとのこと。
あれから150年たった今も、ロシア人は根本的に変わっていません。ウクライナ南東部のマリウポリ等で起きているウクライナ人拉致・強制連行を想起させる記述です。
6/3 標柱を真知床の上に表す
三日少しにして止む。
木(ぼう)を知床の上に表す。前面題して曰く「字知床、敷香川より凡そ三十八里程」と。後面記して曰く「元治元年閏五月朔(ついたち)之を建つ」と。
左面、伝九郎が名を題す。右面則ち余が名なり。
まさに地を択び之を建てんとす。
草を除く。七八寸の下、皆な氷気凝固して鑿つべからず。
鑿つこと僅かに尺余にして止む。
嵒上俼視するに、石壁陡削すること、殆どまさに十丈ならんとす。
心悸(わなな)き目眩み、久しく駐まるべからず。瑟縮す。
以て行く、唯だ見るのみ。
巖石の間、鳬鴎の無数なるもの群を成す。
白黒の相ひ雑(まじ)ること、碁を布くがごとしく然り。
表木有り。蓋し安政中、同心川上某の建つる所にして、文字半ば漫滅せり。
近世の邦人の経歴して此に至る者、某と栗山某との数人に過ぎずと云ふ。
詩有りて曰く、
絶壁試しに登臨すれば
風煙転じ廊寥なり
誰か知る布衣の者
此に去りて銅標を擬せんとは
木(ぼう)を知床の上に表す。前面題して曰く「字知床、敷香川より凡そ三十八里程」と。後面記して曰く「元治元年閏五月朔(ついたち)之を建つ」と。
左面、伝九郎が名を題す。右面則ち余が名なり。
まさに地を択び之を建てんとす。
草を除く。七八寸の下、皆な氷気凝固して鑿つべからず。
鑿つこと僅かに尺余にして止む。
嵒上俼視するに、石壁陡削すること、殆どまさに十丈ならんとす。
心悸(わなな)き目眩み、久しく駐まるべからず。瑟縮す。
以て行く、唯だ見るのみ。
巖石の間、鳬鴎の無数なるもの群を成す。
白黒の相ひ雑(まじ)ること、碁を布くがごとしく然り。
表木有り。蓋し安政中、同心川上某の建つる所にして、文字半ば漫滅せり。
近世の邦人の経歴して此に至る者、某と栗山某との数人に過ぎずと云ふ。
詩有りて曰く、
絶壁試しに登臨すれば
風煙転じ廊寥なり
誰か知る布衣の者
此に去りて銅標を擬せんとは
■解説
この日もほぼ移動していません。岡本・西村伝九郎は北知床岬の上に標柱を立てました。除草して土を掘るも、凍土のため深く掘れません。結局立てることに成功したようですが、予定よりも浅く立ててしまった模様。周囲の岸壁を見ると、鴎が大群をなしています。
この地にはすでに日本人が到達を記念して、一本標柱を立てていました。その文字は大半が消えかけ、朽ちようとしています。安政年間に到達した川上氏が建てたものでした。
岡本が把握している限りにおいて、北知床岬に到達した日本人はわずか数人に過ぎなかったようです。歴史に「たられば」は邪道ですが、もし最上徳内や近藤重蔵の志が受け入れられ、北方開発が積極的に進められていたら、状況はまた一つや二つ違っていたでしょう。
6/4 周吉等、鴎の卵を獲りて帰る
四日、雨止む。周吉等、鴎の卵数十を知床に獲りて帰る。
午後晴る。余、伝九郎と周吉を拉し、知床に遊す。
嵒下水潮の処より掲跣し、身を側て屈面し進む。
水深きこと膝上に及ぶ。
仰ぎて之を望むに、大巌の崛起、上出て下入ること、老人の傴僂の状のごとし。
小石片の往々として畳み成すに、鴎鳬の巣を作ること、復た分寸の余地無し。
巌下より之を望む。卵、其の頂を露はすこと累々然たり。
或は巣くはず、直ちに卵を翼する者有り。
然るに皆な高く頭上に出で、多く是に得べからず。
之を銃すること、一発にして二三羽。
亦た多く嵒間に繋がり、纔(わず)かに四羽を獲るのみ。
此の際、火器を知らず、発する毎に驚飛し、且つ隕墜し、足にて卵を踢落とす者、勝計すべからず。
皆な争ひて其の子を獲し、一母已に死すれば、則ち一母 之に代はりて覆翼す。
人をして憫然たらしむ。
午後晴る。余、伝九郎と周吉を拉し、知床に遊す。
嵒下水潮の処より掲跣し、身を側て屈面し進む。
水深きこと膝上に及ぶ。
仰ぎて之を望むに、大巌の崛起、上出て下入ること、老人の傴僂の状のごとし。
小石片の往々として畳み成すに、鴎鳬の巣を作ること、復た分寸の余地無し。
巌下より之を望む。卵、其の頂を露はすこと累々然たり。
或は巣くはず、直ちに卵を翼する者有り。
然るに皆な高く頭上に出で、多く是に得べからず。
之を銃すること、一発にして二三羽。
亦た多く嵒間に繋がり、纔(わず)かに四羽を獲るのみ。
此の際、火器を知らず、発する毎に驚飛し、且つ隕墜し、足にて卵を踢落とす者、勝計すべからず。
皆な争ひて其の子を獲し、一母已に死すれば、則ち一母 之に代はりて覆翼す。
人をして憫然たらしむ。
■解説
ようやく雨がやみ、午後になると晴れました。周吉ら従者が、鴎の卵を持って帰ってきました。午後の晴れ間を見て、岡本は伝九郎と周吉を連れ、北知床岬周辺のフィールドワークを行います。膝上まで濡れながら、磯伝いに進みました。岸壁を見上げると、鴎の巣や卵が見えます。
ここで鴎を撃つと、一発で2~3羽にあたりますが、その多くが岩の隙間に墜ちてしまい、捕獲できたのは4羽のみでした。
といったところで、8回目を終えたいと思います。いまだ北知床半島から抜け出しておらず、なかなか北緯50度線を越えません。はたして、いつになったら動けるのでしょうか。
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