ブログヘッダー画像

岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会(第15回目)【6/1 女侶区隖~縫江】

樺太北部をフィールドワークした岡本監輔の旅行記『窮北日誌』を読む会。15回目となる今回は、岡本一行が女侶区隖を出発するシーンから読み進めていきます。

このあたりから、海岸線に沿うようにして、巨大湖がいくつも出現します。それに伴い平地が増え、村数も増えてきました。どんな地名が記録されているでしょうか。

20220629karafuto.jpg
▲今回の巡検ルート(矢印が読み進める行程)

6/1 女侶区隖~縫江

六月初一日、昧爽にして未だ起きず。

肉分夷の婦女十余人、独木舟を浮べて至り、戸を窺ふも去る。

既に起きて乃ち又た至り、戸を満たすこと、甚だ囂(かまびす)し。

一人有り、年は二十五、六ばかりにして、身に天鵞絨を服す。

顔容頗る美にして、能く蝦夷語に達す。応対流るがごとし。

之を問へば則ち志理玖那が妻、爾志加と云ふ者なり。

曰く、「嘗て盤香に居り、四年を経て二子を生む」と。

之に煙草二、三包・二小針・一碗の飯を与ふ。其の他は則ち煙草一撮・一小針なり。

身まさに木を沙岡の上に発表せんとするに、馴鹿の角を拾ひ得たり。

爾志加曰く、「是れ大忌なり。之を携へ湖に出づれば、魚復た至らず」と。聴かず水に泝る。

七、八町、鉄を縋(なわ)して之を測るに、深きは、或は三丈に過ぐ。浅き者も丈余に下らず。

乃ち故処に帰り、爾志加を舟に見る。

其の人心に逆ふを悪み、之に角を授けて去る。

湖を出て行く。之を測り、半里の外に至る。皆な一丈五尺ばかりなり。

肉分夷の舟を以て追ひ至るに会ふ。

倶に行くこと二里ばかり、蝦夷に命じて先づ行かしめ、余、伝九郎と舟を舎て陸す。

銀沙平布のごとし。日光の暎照するに、殆ど正視し難し。徒跣にて過ぐるに、足稍く熱し。唯だ海水のみ至冷なるに、耐ゆるべからず。

行くこと三里ばかり、その間小岡に往往として落葉松を産す。岡尽て頗る開濶なり。

之を望むに、平流の南より北に甚だ長し。対岸の平山の樹木、蒼然たり。

是を縫江(ヌエ)と為す。

遥かに肉分夷の戸を湖傍に見る。

南方に四家有りて毛繰隖(ケクルオ)と曰ひ、北方に三家有るを吾苧隖(アオー)と曰ふ。

夷等の汀上に立て迎へ視る者、甚だ衆し。

其の蝦夷語に達する者二人、袁都古智(オッコチ)と曰ひ、予古便(ヨコベ)と曰ふ。約め之に舟を河口に送らしめ、遂に夷戸に行く。

男女の環視する者、四十許人、争て志斐志野母(シヒシャモ)と曰ふ。

蓋し始めて中国人を見るなり。

時に嚢中の煙草尽く。余粉を傾け之に与ふ。

夷等輙ち服さず、之を傍人に分ちたり。

午後、蝦夷に追及し戸を湖口に結ぶ。

女侶区隖を距ること凡そ六、七里。此の間に水無く、僅かに点滴のごとく二、三処を見るのみ。

身に詩有り、志を言て曰く、


洪河数十里
遠く西南の際よりす
対岸皆な平山にして
一望するに寸翳無し
樹色何ぞ鬱青ならんや
鵰鶚雲を掠めて翔る
地勢覇王の畧にして
風物仙人の郷なり

家家多く水に傍ひ
各自相ひ遷徒す
振古より賦役無く
漁猟耘耔に代はる
我を視て笑ふこと嫣然にして
語語天真を見る
俗は則ち化外の様にして
心は是れ中州の民なり

邈(とほ)し比羅夫
余風誰か復た訪ねん
朅来一千年
議論空く紙の上
天辺の日光薄く
海角腥風悪し
安んぞ得んや銕船を泛(うかべ)て
縦横に鯨鰐を駆るを
願くは皮裘の侶と為て
篳輅の微忠を效さん
唯だ経遠の志を期すのみ
一時の功績を求めず

■解説(1)―トナカイの角を拾う


明け方のまだ皆が寝静まっているころ、ニブフの女たちが十数人、舟をこいで宿営地に近づき、帳を覗くも去っていきました。岡本一行が起床すると、女たちはまた訪れ、帳はうるさいほど賑やかになりました。

そのうち一人はアイヌ語に堪能で、一行とよく話が通じます。年齢は20代中頃の模様。その正体はシリクナ(前回記事を参照のこと)の妻・ニシカでした。

彼女が言うには、「かつて盤香に4年滞在して、そこで子供を2人産んだ」と。岡本は女たちに煙草と縫い針を与え、ニシカに食事をふるまいました。

支度を済ませ、海岸に標柱を立てようとした時のこと。岡本はトナカイの角が落ちているのを拾いました。これを見たニシカは、「これを持って湖に行くと不漁になる」と言います。それを無視するように、岡本は角を湖に捨てました。何気ないやりとりですが、ニブフ住民の信仰や伝承を垣間見ることが出来ます。

その後、一行は弥勒翁湾の測量を行い、角を捨てた海岸に戻ると、舟に乗ったニシカの姿がありました。忠告を聞かなかったことを憎み、トナカイの角を岡本に渡し、去っていきました。これにて女侶区隖でのエピソードは終わり、移動パートに移ります。

■解説(2)―砂浜を歩いて縫江に至る


やがて、ニブフ先住民が船に乗り追ってきました。彼らと一緒に移動すること約8キロ、岡本と西村は船を降りて海岸を歩き、舟を縫江まで先行させることに。2人の侍は裸足姿で、白砂上をひたすら歩き続けます。

北風が吹くたびに凍えた夜が嘘かのように、日光がさんさんと照り付けます。海岸の砂は熱され、歩くたびに体力を奪っていきました。

10キロ以上歩くと、やがて左手に細長い湖が見えてきました。その対岸部には樹木が生い茂っています。こうしてついに、縫江(ぬえ)まで到達しました。湖口部を縫江というらしく、湖自体は日本語で「縫湾」と呼ばれているほか、樺太中央を南北に流れる対毛川(ついむ/Tym)の河口を兼ねています。

昔から、ノグリキを縫江に比定する人を散見します。これが妥当か否かについて、ここでは論じません。ただし、対毛川河口部の広域地名として縫江を使用する分には、個人的に妥当だと思います。

■解説(3)―縫江の村で宿営する


湖畔に立つと、はるか遠くにニブフ集落が見えました。湖口南岸の集落を毛繰隖といい、北岸の集落を吾苧隖といいます。

多くのニブフ住民が浜辺に立ち、二人の到着を眺めていました。アイヌ語に通じたオッコチ・ヨコベという人物に出会い、舟を手配させてから、それに乗って縫江の村に入りました。この辺りの住民は、母語のニブフ語だけでなく、アイヌ語やウィルタ語にも通じており、多くの言語を使用しながら暮らしたことが見て取れます。

村に入ると、四十人ほどの住民が二人を見ては、次々に「シヒシャモ(外国人)」と言いました。まるで、初めて外国人を見たかのような態度です。

午後、植吉らアイヌ従者に合流して、湖口に宿営しました。この日の文章は、岡本の漢詩で〆られています。


...といったところで、15回目の解説を終えたいと思います。

敷香からここまで長かった!一つの節目というべきでしょう。

これまで日本人が到達した場所で最北という縫江に到達しました。あそこで繰り広げられる村人たちとの交流については、次回じっくりとご紹介する予定です。

(参考文献)
吉田東伍『大日本地名辞書』続編、冨山房、1909年
関連記事

COMMENT