ブログヘッダー画像

岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会(第16回目)【6/2~5 縫江】

樺太北部をフィールドワークした岡本監輔の旅行記『窮北日誌』を読む会。16回目となる今回は、岡本一行が縫江に滞在するシーンを読み進めていきます。

20220706karafuto.png
▲今回の巡検ルート(赤枠が読み進める範囲)

6/2 対毛川流域について聞き取り調査をする

二日、微陰にして北風頗る寒し。

土夷の郡来すること陸続として止まず、煩囂極まる。

予古便を召し、遠近の夷落の状を問ふ。

予古便曰く、此の河総て鷺毛隖(ロモー)と名づく。所謂縫江(ヌエ)と云ふは、特に河口を指して言ふのみ。河に沿ふ処処、肉分住す。

之を距るに最も近き者を蟻笥(アリゲ)と曰ひ、一家あり。

次を千苅間(チカルマ)と曰ひ、四家あり。

次を押懲績(オシコリン)と曰ひ、二家あり。

次を触穂隖(フレボー)と曰ひ、一家あり。

次を折剥隖(オリモクオ)と曰ひ、各~五家あり。

次を茶節苅(チャブシカリ)と曰ひ、二家あり。

次を連尾隖(ツラオー)と曰ひ、牛昨隖(ウシクオ)と曰ひ、各一家あり。

次を柄触衝(エブルツク)と曰ひ、二家あり。

次を千入隖(チルオ)と曰ひ、羅陪(ラベ)と曰ひ、各~一家あり。

次を触戸(フルト)と曰ひ、二家あり。

次を売生(ウルウ)と曰ひ、茶昨隖(チャクオ)と曰ひ、各~一家あり。

次を跡織隖(アトルオ)と曰ひ、三家あり。

次を蚊張(カバル)と曰ひ、堀昨鞆(ホリクトモ)と曰ひ、各一家あり。

此より上に復た居人無しと。

午牌、女子の五、六人有りて相ひ携へ至る。蝦夷争ひて調戯す。

一老翁有り、能く蝦夷語に達す。指し告げて曰く、「某、某と吾が子なり。某は吾が子の婦なり」と。

之を問へば則ち、小六子の首長にして名を幾美智耶牟(キミチャン)と為す。

即ち敷香の首長、志予都古加奴(ショツロカヌ)が従父兄にして、手笥(タゲ)に在る者なり。

談、奥地に及ぶ。一一応答す。

幌子谷(ホロコタン)に至るまで、復た遺脱無し。

且つ曰く、「極北の尽頭の処に高山有り。巨巌、海岸に弥望するも、小湾多く、皆な宜しく舟を維ぐべし。其の佗(ほか)は則ち沙汀の平坥にして、土人、網を海中に■ぐ」と。

是より先、植吉等、浮言を称説し、常に沮色有り。

余、其の慮るに足る無きを推知するに、敢て聴かず。

此の言を聞くに及びて、愈いよ北彊に険危無きを知る。

以為らく神助有りと喜ぶこと甚だし。

煙草一斤を与へ、且つ之に飲食せしむ。諸夷、之を見て涎を垂れたり。

■解説(1)―鷺毛(対毛川)流域の地名を聞く


岡本一行は縫江に数日滞在しました。村人が次々に宿営地を訪れ、にぎわいが止むことはありません。アイヌ語が話せる村民・ヨコベ(前回記事を参照のこと)を呼びだし、近隣の地理について尋ねました。

縫湾に流出する川を「鷺毛」と呼び、流域にはいくつものニブフ村落があるとのこと。縫江はその河口部のみを指すと言いました。鷺毛とは対毛川(ついむ/Tym)のことです。

前回、僕は「ノグリキを指して縫江となす場合、広域地名としてなら妥当」と言いましたが、その範囲を対毛川河口のある湖南一帯と定義づけたほうが良さそうです。

途中、いくつも列挙されている地名は、いずれも対毛川流域の地名です。残念ながら、岡本一行は同流域を巡検しておらず、地名・位置の比定はけして容易ではありません。仮に比定できたとしても、ソ連時代の強制移住・人口集約によって、その位置が変化した可能性があります。

■解説(2)―アイヌ語を知る古老キミチャンに出会う


午後、村の女たちが宿営地を訪れ、アイヌ従者は女遊びに興じました。一人の老人が同行しているので話を聞くと、アイヌ語で「この女たちは娘と息子の嫁だ」といいます。

老人の正体はウィルタ集落の首長で、キミチャンと名乗りました。敷香オロッコ首長の親類にあたり、手笥という村に住んでいると言います。

アイヌ語が通じるため、意思疎通が容易にできます。そこで岡本は北樺太の地理をたずねてみると、岡本が把握している情報と同じことを話しました。多少の誇張はあるかもしれませんが、岡本監輔の情報収集能力の高さを感じさせられる一文です。

キミチャンはさらに言いました。「樺太の最北端には高い山がある。海岸沿いには巨岩が多く、さらに小さな湾も目立つ。舟を繋ぐのに適した場所が多い。砂浜もあって、住民が網漁をしている。」と。

その話を聞いた植吉らアイヌ従者は、またしても妄想しては怖じ気づきました。それに反して、岡本は極北部の事情を把握できたことで、ひとまず安堵したようです。情報を提供したキミチャンに礼をすべく、彼に煙草と食事をふるまいました。縫江滞在の間、岡本はキミチャンを大いに頼ることになります。

6/3 古老キミチャンから北方諸語を学ぶ

三日、風止む。

諸夷の至る者、初めのごとし、是日、幾美智耶牟を召し、夷語を講究す。

余、鵜寝(ウネ)の称を聞くこと久し。之を地夷に問ふも、能く之を詳らかにするもの莫し。

幾美智耶牟曰く、「此の際、蝦夷地方を称(あ)げて棘穂隖(バラボー)と謂ふ。蝦夷地方、此の際を称げて鵜寐(ウネ)と謂ふ。寿女連、肉分を称げて津漘履(ツロブン)と謂ふ。肉分、寿女連を称げて鉾子荷(ホッコニン)と謂ふ」と。

是に於て、始めて鵜寝は此の際の総称たるを知る。

亦た湖口の浅深を問ふに曰く、「弁財を受くるに害無きなり。弁財果たして至らんや。吾請ふ導きを為さん」と。

松前の方言にして、商船を指して「弁財」と曰ふ。夷中にも亦た此の称、通用するなり。

其の韃夷と貿易するの状を問ふに曰く、「彼多く煙草を齎し、貂皮一枚ごとに一把を易(おさ)む」と。酒は則ち之に無し。但し冬間に少許を齎すのみ。

■解説


前日と同じように、村人が次々に宿営地を訪れます。この日はキミチャンを招聘して、北樺太の言語(ニブフ語・ウィルタ語)を学びました。

道中、岡本は「ウネ」という単語をよく耳にしました。その意味が気になっては、行く先々で聞いてみるも分かりません。キミチャンにその意味をたずねると、ニブフ人居住域を指すアイヌ語だということが分かりました。

さらに縫湾の深さをたずねると、「弁財船が停泊できる深さだ。ここには来航しないのだろうか。私が先導してもよいのだが。」と答えました。松前から遠く離れた縫江の地でも、「ベンザイセン」という日本語は通用していたようです。

外満州(≒沿海州)方面との交易について聞くと、「テンの毛皮を輸出してタバコを入手する」と答えました。酒は年中手に入るわけではなく、冬にのみ少量を仕入れたようです。

6/4 縫湾に舟を浮かべる

四日、朗晴なり。

幾美智耶牟と敷香の捕魚の事を談す。且つ告ぐるに、中国人の至る者日に多く、酒井氏始めて漁場を野凝に開くの由を以てす。

幾美智耶牟曰く、「吾、我の未だ死せざるに及びて、弁財の此に至るを見るを願ふや」と。

午後、刀破袁に命じて戸を守らしめ、予古便を嚮導と為し、湖に泛(うか)びて行く。

湖勢、東西約そ一里。銕を縋(かけ)て之を測るに、深きは丈余、浅きは尺に盈たず。

泝(さかのぼ)ること里余にして河口なり。

湖に入る。深さ一丈五、六尺。両岸豊草ありて其の下泥土多し。

敷香河と比するに、大なり。幌間(ホロナイ)河に比すれば、稍や小なり。

河傍に小六子夷の捕魚の戸有り。

往き見るに、夷の五、六人有りて、炉上に鮭を炙る。満戸なるは皆な鮭魚にして、坐すべからず。人ごとに煙草少許を与へて去る。

適たま幾美智耶牟が舟もち至るに会ふ。

命じ発せしむ別舟の追至るは二隻。我が舟を挟みてこれを衷(うち)にし、相ひ視て笑ふ。

幾美智耶牟が女(むすめ)、年は二十余ばかり、頗る美なり。伝九郎、之に煙草を与へて曰く、「吾が妹なり」と。

余も亦た煙草を取り、二少女に与へて曰く、「是れ吾が妹なり」と。

舟中の環視、大ひに笑ふ。植吉等も亦た之に效(なら)ふ。

急に枻(かじ)を皷し、歌ひて帰る。

肉分夷の舟を湖傍に見る。刀破袁曰く、「彼昼間より今に至るまで、敢て去らず。某も亦た外に出て一歩するを得ず。」と。

■解説


この日もキミチャンを招聘し、敷香の漁業事情について話しました。岡本はどうやら、中国人の来航者が多いこと、そして、酒井氏が野凝に漁場を開設した旨を話したようです。キミチャンは前日の内容を踏まえてか、「死ぬまでに弁財船の縫江来航を見たい」と口にしました。

その後、従者トハオに宿営を守らせ、ヨコベをガイド役に縫湾をめぐりました。やがて対毛川河口に到達してこれを見た岡本は、「敷香川よりも大きく、幌内川よりも小さい」と考察しています。

やがて、河辺にウィルタの漁業小屋が見えてきました。小屋をたずねると、中に5人ほどいて鮭を炙っているところでした。内部は捕獲した鮭で満たされています。

小屋の漁師たちに煙草を分け与え、元来た道を戻ると、キミチャンを載せた船に出会いました。たまたま友人に出会ったときのように、親しみを込めて接している様子がうかがい知れます。

キミチャンは娘たちを同伴していました。西村は娘に煙草を与え、「わが妹だ」と冗談を言います。岡本や植吉ら従者も他の娘に煙草を渡しては、同じように冗談を言いました。みな笑いながら、歌いながら、舟をこいで村に戻ります。

宿営地に戻ると、ニブフの小舟が浮かんでいました。留守番をしていたトハオは、「(あの小舟は)昼間からずっとこの場所にいる。不審に思い、帳から一歩も出られなかった。」と言います。

トハオの懸念は翌日、現実のものと化するのでした。

6/5 泥棒から荷物を取り返す

五日、風陰なり。

舟を浮びて湖の浅深を測る。湖口の深きは殆ど三丈。浅き者も亦た、まさに丈ならんとす。

俄かに絚(なわ)絶ふるに、測る能はず。然るも両岸の白波騰揚して、中央の甚だ静なるを見るに、その深きこと知るべきなり。

余、伝九郎に謂ひて曰く、「湖口の女侶区隖と比するに、尤も大なり」と。

伝九郎曰く、「五百間に下らず」と。

遂に木を北岸の沙岡上に表す。題め曰く、「真知床より凡そ八十里」と。

蓋し過ぎたること有るも、及ばざるは無し。安政中、栗山太平が経歴する所、実に此に止ると云。

雨に偶ひて帰る。午後、幾美智耶牟の又た至る。

是より先、伝九郎は皮履を失ひ、気志喩理伽は箭と砥石を失ひ、肉分夷も亦た、橈(かじ)を失ふ者有り。

怒り罵りて曰く、「貴人の失ふ所の者は、実に吾苧隖の某等の之を盗む」と。幾美智耶牟も亦た之を言ふ。

因て幾美智耶牟と肉分夷に命じて前導せしめ、舟を浮かべて北し、吾苧隖に至りて之を蹝跡し、果たして之を得たり。

其の人、咍然として笑ふ。殊に以て意と為さず。

幾美智耶牟をして之に謂はしめて曰く、「中国に物を盗むこと、汝がごとき者有れば、罰して許すこと無し。今より已後、之を戒めよ」と。

時に倉卒の煙草を齎さざるに、女子に各一針を与へて去る。

夜、蝦夷に濁酒を飲ましめ、肉分夷に頒与す。

夷中、濁酒有るを知らず、之を飲むも、亦た甚だ嗜まず。

■解説


この日は縫湾の測量を行いました。波打つ湖畔とは対照的に、湖の中央部は平穏そのもので、そこそこ深い湖だということが分かりました。そして湖の北岸に「真知床より約80里」と記した標柱を立てました。

安政年間に栗山太平が縫江に到達した記録はあるものの、そこから先への日本人到達は記録されていません。岡本一行はこれから先、「前人未到の旅路」へと挑むことになります。

やがて雨が降ったので宿営地に戻ると、何かがありません。西村・従者ケシユリカだけでなく、村人の持ち物までもが消えています。ほどなくして来訪したキミチャンはこれを見て、他の村人たち共々「アオーの村人が盗んだものだ」と怒りました。

キミチャンと村人たち先導のもと、一行がアオーに至ると、そこにあったのは消えた荷物でした。やはり盗まれていたのです。盗んだ張本人はあっけらかんとしています。岡本はキミチャンを介して言いました。「もしこれが中国であれば決して許されないことだ。以後盗みはやめよ。」と。

この一喝が果たして効いたかまでは分かりませんが、ひとまず騒動が解決したところで宿営地に戻り、村人たちにも濁酒をふるまいました。ニブフに濁酒を飲む習慣はないらしく、あまり喜ばなかったようです。


...といったところで、16回目の解説は終了です。数日間の縫江滞在は、良くも悪くも多くのエピソードを残しました。岡本にとって大きな思い出になったでしょう。

縫江からしばらくの間、平らで湖の多い地形を進んでいきます。ニブフ語優勢という環境の中、どんな地名が登場するのか楽しみです。


(参考文献)
吉田東伍『大日本地名辞書』続編、冨山房、1909年
関連記事

COMMENT