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岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会(第23回目)【6/29松毛鵞小門~7/4品馬戸】

樺太北部をフィールドワークした岡本監輔の旅行記『窮北日誌』を読む会。23回目となる今回は、岡本一行が松毛鵞小門に滞在するシーンから読み進めていきます。

樺太最北端の地図
▲今回の巡検ルート(矢印が読み進める行程)

6/29~7/2 松毛鵞小門で雨をやり過ごす

二十九日、雨漸く歇む。風力愈いよ厲し。

是日も又た夷戸に過る。戸中の男女、吾輩を迎へて草実乾魚等を供す。必ず好否如何を問ふ。乃ち煙草一小撮を与へて去る。


七月初一日、北風ありて雨霽る。

午後、又た夷戸に過る。戸中に魯西亜語を鮮する者頗る多し。

満州語を問ふも、知る者無し。諸器物を出し煙草もしくは木綿等に易へんと請ふ。魯の出す所のもの多し。

余、之を喩して曰く、「中国、満州の物を愛す。魯西亜の物に用ひる所無し。」と。

群夷乃ち名を満州に托して呶呶なること止まず。


初二日、風無く波忽ち止む。西岸の波勢、なお壮なるを慮り発せず。

申牌、伝九郎 夷を召し銃を試む。表木を沙上に建て、三十間の外より之を注射す。五発三中にして夷も亦た中る者多し。

其の銃、本は吉林に出づ。家々之を蔵す。率むね皆な礈銃、甚だ粗薄と雖も、皆な能く十銭弾を装せり。

■解説

松毛鵞小門では悪天候のため、4日間の足止めを余儀なくされました。その間、岡本は集落内部でフィールドワークを行い、いくつかの記録を残しています。

まず最初に住居をたずねると、住民は食べ物をふるまいました。行く先々では必ず「美味しいか」と聞かれたようです。

また別の住居をたずねると、そこの住民はロシア語をよく解しました。満州語は分からないようです。ロシア人がもたらした物品を出しては、木綿や煙草を求めようとします。これを見た岡本が「和人は満州の物品を愛用している。ロシアの物は使わない。」と言ったところ、住民たちは「これは満洲の物だ」と口々にしました。

滞在最終日、西村は従者たちを呼んで銃の射撃練習をしました。その際に使用した銃は吉林産のもので、村内の各世帯に一丁ありました。北樺太と満州のつながりがいかに深いか、各記述から見てとれます。

7/3 松毛鵞小門~戸女

初三日、まさに発せんとするに、群夷、草実・乾魚を齎し、煙草に易へんと請ふ。止まざれば、顧みずして去る。

西北に行くこと二里ばかり、山勢漸く大なる。蒼翠掬すべし。山下の巌石 犖确にして、人跡を絶つ。

行くこと十町ばかり、巌洞の中に残雪あること皚然たり。岬頭の一石、筝のごとし。水中に屹立す。高さ約そ三丈径り、之に半す。

一折して西に向き、行くこと十四・五町。巨石有りて削るがごとし。参差・角列、鵞小門岬と相対す。鵞小門岬を囘望するに、正に丒位に在り。

此より一転して西南に向ひて行くこと三里、山の半腹已上、皆な樺樹にして、其の下に茂草あり。海岸の大石 錯互にして足を容れず、石色 皆な黒し。

漸く南し落葉松を見る。山下の小流 皆な赤濁にして、潺潺として海に注ぐ。海水の殷紅なること血のごとし。岩礁、海中に点綴す。

河傍に一夷家有りて、是を戸女(トメ)と為す。人を見ず、此より正南に向かひて行く。海岸皆な雑草ありて上に落葉松を産ず。

行くこと一里強、土石崩墜して山骨悉く露はる、高さ五・六丈。海面の礁石列峙す。水豹多し。

又た南すること里許。日已に落ち、瞑色あり。四合、咫尺を弁ぜざるに、乃ち宿す。

■解説

ようやく出発準備が整い、さあ船出しようかとした瞬間も、村人たちは煙草を求めて来ました。いつまでも相手にしては埒が明かないので、無視して松毛鵞小門を抜け出し、樺太最北部を北西に進んでいきます。

海岸線はやがて山がちになりました。洞穴に残雪を見ながら進むと、ほどなくして岬の最先端に到達。ここで方角を南に変えます。この岬は一般的にMarii岬と呼ばれている場所です。

半島部を南下する間、岡本は海岸付近の環境に着目しました。山の半腹以上には樺が生え、下の方には草が生い茂っています。巨岩が多く、石は黒みを帯びていました。

さらに南下すると、赤く濁った沢水が海に流出し、赤く染まった場所を見つけました。この場所を戸女といい、川沿いに家を確認するも、人の姿はどこにも見当たりません。ここでのフィールドワークはせず、さらに南下を続けます。

なおも荒れた海岸線は続き、崩れて土肌の露出した斜面がありました。海岸にはアザラシがいます。さらに進むと、今度は日没に遭いました。手ごろな場所で宿営して、この日は終了。

7/4 戸女~品馬戸

初四日、霧を衝きて行く。

肉分夷の犬を使ひて舟を曳くに会ふ。吾輩を見て導き帰る。

約二十町、山勢中断す。一河有りて広さ十間ばかり。深さ二・三尺。河傍の夷戸、皆な廃屋にして、其の現に住する者、止だ一家のみ。是れを弁侶隖(ベロオ)と為す。小憩して行く。地勢初のごとし。

三里ばかり山脉中断するを戸塚(トツカ)と為し、夷三家有り。一家は蝦夷に出づと云ふ。始めて鮭を穫りて之を食す。

此れより南西すること三里ばかり。山又た漸く低し。地勢豁然にして、東北の廬碁理山、相ひ距ること三・四里にあり。東南の湖水、甚だ流し。陂陀・平遠にして際無し。夷屋三つ、湖に傍ひて構ふるを結眉(ムシビ)と為す。

午牌、沙上に飯し又た行く。沙汀の平坦にして小岡の断続する者、約そ五里あり。

一転して南に行くこと一里。湖委 海に注ぐ。広さ三・四百間。湖南の小山、東西に横亘す。樹木の扶疏なること愛すべし。山に倚りて十三家有り。是れを品馬戸(ホンメト)と為す。

日暮れの昏黒なるに会ふ。其の湾曲なること甚だ遠く、且つ居舎無しと謂ふ。皆な直に前岸に達せんと欲す。

隠隠にして、遥かに浅湾の舟を維ぐを認む。命じて之に就かしめば、壮夫十余人を見る。力を極めて枻を皷し、我が舟を導きて帰る。仍て戸を汀上に結ぶ。

男女の出て観る者、六・七十人、初め其の或ひは偸盗たるを疑ふ。其の周旋甚だ勤むるを見るに、乃ち厭はず。

■解説

霧が立ち込める中を出発すると、やがて犬に舟を曳かせるニブフ人に出会いました。この辺りに平地と河口があって、その横に廃屋が数軒残っています。この場所、すなわち弁侶隖で休息を取りました。地図上ではPilvoと表記される場所です。

再び断崖沿いを進むと、再び平地と集落があります。この地を戸塚といい、蝦夷に出自を持つという住民がいました。米軍地図にあるPil-Tyk川の河口部が、戸塚のあった場所ではないかと思います。一行はここで鮭を獲って食しました。

戸塚を過ぎると海岸線は穏やかになり、山々は遠くに後退します。山と入れ替わるように、今度は湖が見えてきました。地図上ではおもに、ポモール湾・プロンゲ湾等と表記される場所です。大日本地名辞書には「ムウヂプ」という表記も見えます。

湖に沿って立ち並ぶ集落を、結眉といいました。「ムシビ」と読ませる地名の登場は、これで3回目です。すでに北知床半島のパートで2回登場しました。先ほどのムウヂプはこれに相当するものでしょう。

結眉で昼食後、緩やかな砂丘を見ながら進んでいきます。途中で南に方角が変わると、一里ほどで湖口部に到達しました。ここに品馬戸という村があって、Pomuid・Pomor・Nekrasovkaなど、地図によって複数の表記が見られます。現在はネクラソフカという名のもと、ロシア人入植者の人口侵略に耐えながら、少数のニブフ人が居住しているそうです。

品馬戸に到着したところで、日没を迎えました。前方に舟を見つけ近づくと、村人たちが導いてきます。上陸して浜辺に宿営すると、6~70人の村人がやってきました。あまりにもジッと見てくるものですから、岡本は当初、強盗ではないかと警戒したようです。


...といったところで、23回目の解説を終えたいと思います。

鵞小門半島の険しい地形を乗り越え、ここからしばらくの間、穏やかな海岸線を進んでいきます。ニブフの居住に適した地形が多い中で、きっと多くの地名が登場するに違いありません。

(参考文献)
吉田東伍『大日本地名辞書』続編、冨山房、1909年

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