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岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会(第24回目)【7/5品馬戸~7与市這隖】

樺太北部をフィールドワークした岡本監輔の旅行記『窮北日誌』を読む会。24回目となる今回は、岡本一行が品馬戸を出発するシーンから読み進めていきます。

北樺太日本語地図
▲今回の巡検ルート(矢印が読み進める行程)

今回はいつもよりも集落密度が高いので、高精度の地図を用意しました。後代の地図をいくつか参照しつつ、極力正確になるよう記載したつもりです。

7/5 品馬戸~羽吹戸:巨大湖の間を進む

初五日、晴れて風無し。

まさに発せんとするに、周吉等の夷戸に行りて、いまだ帰らざるに会ふ。之を待つこと良く久し。帰るに及び満産の煙草を齎して曰く、「土人の贈る所なり」と。且つ曰く、「前宵の舟を扶くる者十余人、皆な本は我が族に出でたり。懇切此のごとくなる所以なり。」と。之を促して乃ち発す。

直に西すること里許、山断ち樹木無し。稍く転じて南すること二里ばかり。遂に正南に走る。海水の湾入、極目にして際無し。

西南二・三里の外に一小島あり。西に向かはば、蜿蜒として沙汀に一木を見ず。風 草上を行き、潮汐 急流の状を為す。遠くに東韃の山を望むに、縹渺 煙霞中に在り。

半里ばかりに一家見るを餓履隖(ガルオ)と曰ふ。

里許に四家見るを羽吹戸(ハニボクト)と曰ふ。此の際の舟泊、極めて穏便なり。

崖に循りて一家有るを増穢(マシケガル)と曰ふ。

二家有るを霧蚊(キリカ)と曰ふ。是の日、羽吹戸に宿す。

■解説

品馬戸を出発後、Zaliv Pomor湖とZaliv Baikal湖に挟まれた、半島状の地形を進んでいきます。何れの湖も湖口が広い汽水湖ということで、現地ロシア人には「湾」とみなされているようです。

話を出発時に戻します。アイヌ従者の周吉が戻ってこないので、帰りをしばらく待っていると、満州産の煙草を手に戻ってきました。彼曰く「前日夜に舟を誘導した者たちはみな、アイヌの血を引いている」とのこと。その縁もあって親切にしてもらい、土産に煙草をもらったのだと言いました。

海岸線を西に1里ほど進むと、陸上に木々が見えなくなりました。一帯を航空写真で見てみると、たしかに草木が少なく、砂丘状になっているのが分かります。

途中で南に方角を変えると、広い湾のような場所に入りました。ここはちょうどZaliv Baikal(以下バイカル湖)の湖口部にあたります。バイカル湖といえばブリヤート共和国のそれを思い浮かべますが、樺太にもバイカルという地名が複数あります。

湖口から西を見ると、東西に細長い島が見えました。ウシ島と呼ばれる砂州です。潮汐の関係で、湖水が急流のように流れていました。ここから0.5里進むとガルオ、さらに1里ほど進むと羽吹戸なる村があります。このあたりの湖岸は係留に適しているようです。

人家は他にもあって、崖沿いに増穢、また別の場所には霧蚊という場所もありました。そのうち増穢はどうやら、現在の地名「Moskalivo=モスカリウォ」の語源と見なされているようです。この日は羽吹戸に宿営しました。

7/6 羽吹戸~牙頭夫:稗のアザラシ油煮はまずい

初六日、東南風 帆を挂(か)く。

直に西し、嶌に傍て行くこと三里。海水の湾入すること、初のごとし。広さ約そ半里。南望するに水天一色にして浩しと。涯際無く、西涯の小沙岡 西南に連綿とす。一培壌有りて草を生やすこと、葱葱然たり。

其の下に夷落有りて、舟行して纔(わず)かに其の屋脊を見る。是れを牛香(ウシカ)と為す。此の地、田村隖とともに偸盗多しと称す。

余、独り挺身して先づ、其の不意に出づ。

夷等 驚愕として、少頃酒を出し、饗を設けて曰く、「之を満州に得る」と。味 火酒と相ひ近く、少しく臭気有り。蓋し久を経るの故ならんや。飲み已へて乃ち出づ。

行りて其の屋を査するに、十九家を得たり。伝九郎曰く、「現住する者、十七家のみ」と。

時に男女出て観るもの、五十許人。針及び煙草を与へて去る。

面視するに東北の廬碁理山、隠隠として角尖を露はす。小嶌の五・六、駢列する者のごとし。漸く遠く、漸く微かに望を極めて行く。濱海・蒼崖の上に落葉松有るも、大半皆な枯る。

行くこと五里ばかり、小流有るも樹木無し。

又た西すること半里、沙岡上に四家有るを血止戸(チャムト)と曰ふ。一嫗を見る。年は七十ばかり。本は蝦夷の出と云ふ。往年 夷中に痘瘡流行し、人多く死するに、絶へて翁嫗の六十已上なる者を見ざるも、此に至り始めて見る。

又た西すること七・八町、四家有るを牙頭夫(ゲッフ)と曰ふ。

日暮れ風急なるに会ふ。乃ち宿す。

散歩して夷戸に過る。二の婦人、五・六の童子を見る。恐るること甚だし。

良く久しく、韃産の稗実を水豹の油もて煮たる者を出し、之を供す。

甚だ旨からず。

■解説

この日も好天のもと、樺太北岸を西へと進んでいきます。ウシ島(Ush)に沿って3里進むと、再び湖口が現れました。ここで改めて南側に目をやると、湖水が際限なく広がってみえます。西岸には砂丘が伸び、所々に草が生えていました。

湖口が見えたところに村がありました。その名も牛香(Wiski)といい、後述の田村尾とともに盗人村と見なされています。そこで、まずは岡本が単身村に乗り込み、その噂の真偽を確かめることに。

岡本が住居をたずねると、村人たちは驚きながらも、酒と食事でもてなしました。酒は満州から仕入れたものらしく、火酒に近い味と臭気があります。臭気があるのはおそらく、運搬に時間を要したからだろうと考察しました。

その後、牛香の家屋数を調査すると、19軒の住居がありました。西村によると、そのうち2軒は住居でないか廃屋とのこと。50人近い村人たちがその様子を見ています。彼らに針とたばこを渡し、牛香を離れました。

東側に目をやると、はるか遠くに廬碁理山が見え、その様子はあたかも島が一列に並んでいるかのようです。しばらくの間、風光明媚でかつ単調な海岸線を進んでいきます。沿岸には落葉松が自生するも、その多くは枯れていました。

牛香から5里ほど進むと、木の生えていない小川がありました。そこからさらに0.5里進むと、砂丘上に村を見つけました。血止戸です。

血止戸の村をたずねると、そこに齢七十ばかりの老女がいました。出身をたずねると元はアイヌの出と言います。ここまでの道中、岡本は60歳以上の老人を見ることはなかったと回想しました。随分前に流行した疫病が原因のようです。

さらに7~8町進むと、牙頭夫(Kef)なる村がありました。ここで宿営することに。

村人の住居をたずねると、婦人2人と子供5~6人がいました。一行を見て怖がっていたようです。やがて料理でもてなしてくれました。

さて、ここからが興味深いところで、料理の内容が事細かに記されています。大陸産ヒエのアザラシ油煮とのこと。これを食した岡本は、あまりの不味さに「甚だ旨からず!」とストレートに評しています。味はさておき、いったいどんな料理なのか、実際に食してみたいものです。

ニブフ料理の世界は奥深い...。

7/7 牙頭夫~与市這隖:盗賊村の田村尾も今は昔

初七日、東南風あり。南天に雲合し、疎雨 時に至る。払暁に発す。

地勢 申位を指す。漸く低く、沙甚だ広し。

行くこと十町ばかりに四家を得るを、喩夫(ユフ)と曰ふ。

三十町ばかりに九家を得るを、帆向隖(ホムクオ)と曰ふ。辰牌、夷戸に過るも未だ起きず。一夷有りて人を待つこと厚し。自ら亜異農と称す。本は多華(タゲ)に出づと云ふ。

時に鮏始めて至る。群夷争ひ出て、網を海中に張るも網獲の算無し。一鮏を贈るごとに裁かに煙草一小撮を与ふ。此の際の日用諸物、漸く足る。大ひに鵜寝の比に非ず。地夷 較(いちじる)しく狡黠なり。

西に行くこと里許、天霽るに会ふ。沙洲を北方に望む。長さ半里ばかり。左顧すれば沙岡の下に十三家有り。舟行して纔かに其の屋頭を見る。是れを田村隖(タムラオ)と為す。

此の地、旧くは盗多しと称す。衣を剥きて人を殺むと。

余 夷戸に行る。婦人・小童 相ひ戒めて出でず。去りて後に戸を開かば、首を延ばして之を望む。頗る可憐なり。一夷有り、年は五十ばかり。妻を叱するに方りて、声甚だ囂(かまびす)し。

余の至ると聞き、惶怖して言無し。久しく首を挙げて曰く、「君 豈に志斐志耶母ならんや」と。韃製の褥を鋪きて之に坐せしむ。相ひ話すこと良く、久しくして出づ。

将に木を岡上に表し、里程を記せんとす。近地に絶へて一木を見ず。之を地夷に請ふも、夷 肯ぜず。因て気志喩理伽をして之を担はしめて曰く、「余 豈に盗する者ならんや」と。煙草少許を与ふるに、夷悦びて乃ち去る。

時に沙上に出て観る者、六・七十人。女子は則ち草間に据りて之を窺ふ。

此れより一折して正南に向かひて走る。西に韃靼の山を望む。相ひ距ること二・三里。島嶼の大小羅列するに、一島尤も近し。

余 蝦夷に謂ひて曰く、「昔は中国人、屡しば満州に至る。歳ごとに争闘有り、嘗て熊羆を生穫して帰る。意ふに此の際や、今吾将に此の嶌を以て満州に界せんとするのみ。此れより以外、愛する所無きなり。」と。

皆な応じて曰く、「諾せんや。昔は我が属、極めて盛んに時どき満州に交易せり。故に此の際諸処のごときも、猶ほ我が種類有り。今、吾れ貴人に従ふ。此に至るまで満人有るを聞かず。唯だ魯人有るを聞くのみ。是れ殆ど魯人の有と為るなり。豈に悲しからざらんや。」と。

行くこと一里強、地勢弓のごとし。一家を得たり。餓屡隖(ガルオ)と曰ふ。

次に五家を掘手這隖(ホッテホウオ)と曰ふ。

一家を与市這隖(ヨイチホウオ)と曰ふ。

一家を井口這隖(イクチホウオ)と曰ふ。

此の際の海水 極めて浅し。泥中に舟を盪かすこと甚だ苦し。水 甚だ鹹(しおから)からず。大渇に会へば以て飲むべし。蓋し其の黒竜江の衝に当たるを以てすればなり。

申牌、与市這隖に休す。時を移す、蝦夷皆な宿せんと請ふ。此に従ふ。

薄暮に土夷の来たる者、五・六人あり。余 黒竜何(いづ)くに在らんと問ふ。

夷 其の西南隅を指す。且つ曰く「魯人の山に倚りて家する者、歳を逐(お)ひて増益す」と。

又た問ふ、「此の際の婦女、淫を魯人に売ること信なるか」と。

皆な曰く「信なり」と。

是れにて木綿を得ること尤も多し。余 其の状を問ふ。夷乃ち其の手を屈伸して状を為して云々す。蓋し情を売る一面、木綿三尋を得るなり。

周吉 夜に行る。一女迎へ謂ひて曰く「苟も我に木綿を与へば、君が為す所に従はん」と。

詩有り見る所を賦して曰く、

昔云ふ田村隖
常に逋逃の夫多し
強盗過客を害し
巨棓其の躯を貫くと
遊子之を伝聞し
行かんと欲して且つ踟蹰す
矮人の胆何ぞ大なるや
剣を横たへて夷戸に過る
戸中都(すべ)て寂寞たり
面を掩ひて一言無し
便ち悟る向来の説
土俗の虚誣を為すなりと
豪雄の士に非ざるよりは
孰れか能く壮図を立てん

■解説(1)帆向隖でサケ漁に立ち会う

この日は未明から雨が降っていましたが、それほど酷くなかったのか、明け方に出発しました。十町進むと喩夫、さらに三十町ほど進むと帆向隖と、立て続けにニブフ集落が見えてきます。

帆向隖に到着したところで、住居を訪ねましたが誰も起床していません。そんな中、人がいるので声をかけると、彼は多華から来たアイヌを名乗りました。多華に関してはまたいずれご紹介します。

やがてサケが泳ぎだすと、村人たちはこぞって家を飛び出し、海中で網漁を始めました。残念ながら一匹も捕獲できなかったようです。それでも貯蔵分のサケを岡本一行に渡し、それと引き換えに煙草を得ました。その様子を見た岡本は、村人たちの物々交換の巧みさを指摘しています。

■解説(2)盗人村の田村隖も今は昔

帆向隖を出ると徐々に晴れてきました。ここで北方に目をやると、長さ0.5里程度の細長い島(Ostrov Banka Zotova)が見えます。逆方向を見れば、13軒の家が砂丘の下に見えました。これを田村隖(Tamlevo=田村尾)といいます。

田村隖に到着したところで家屋をたずねると、皆な警戒して顔を出しません。家から少し離れると、入口から住民が顔を出し、一行をじっと見ています。家主でしょうか。やがて齢五十と思しき男が現れ、妻を怒鳴りつけました。岡本が来たと聞くや、驚き無言になったのち、少し間をおき「おたくらは日本人か?」と尋ねました。

岡本が日本人だと分かり、家に招き入れて大陸産の筵を敷きもてなしました。しばらくの間、ここで話をしたようです。内容については分かりませんが、おそらくロシア人や満州についてでしょう。

家を出た岡本は、距離を記した標柱を立てようとしました。ところが、標柱に適した木が見つかりません。航空写真を見ると分かりますが、この辺りには森林が少なく、砂丘がちになっています。そこで住民から木片を譲り受けようとするも拒否されました。標柱の設置をあきらめ、ケシユリカ経由で住民たちに「我々は盗賊ではない」と伝え、煙草を渡して喜んだのを確認してから、田村隖を離れます。出発の際、村人6~70人が砂丘上に立ち、一行を見送りました。

最後に盗賊ではないと念を押したのは、おそらく田村隖の村人たちが一行に不信感を抱いていたと、そのように見えたからでしょう。ロシア人と違って日本人は危害を加えないと、そう思わせたかったのかもしれません。

■解説(3)ロシア人相手に体を売る女たち

田村隖を出ると方角を南に変え、ここから西岸部をひたすら南下していきます。新章「樺太西海岸編」の幕開けというべきでしょうか。

ここで西に目をやると、2~3里先に大陸部の山々が見え、その手前には島がいくつも浮かんでいます。島の正体はどうやら、潟湖Zaliv Schast’yaの砂州のようです。樺太だけでなく、対岸の大陸部にもニブフが居住しています。

ここで岡本は言いました。「中国人はかつてこの地を訪れ、ときには戦い、ときにはヒグマを生け捕りにして帰った。今、日本人は北樺太を満州の一部と見なしている。果たしてその考えに固執して良いものだろうか。」と。

それに対して従者(おそらく周吉・植吉)も「貴人の仰ることは分かります。かつて私たちアイヌも盛んにこの地を訪れ、満州と交易しました。今この地を訪れて、満州人がいないことを知りました。その代わりにいるのはロシア人ばかりです。こうしてロシアに蝕まれる様を見て、悲しまずにはいられましょうか。」と。

岡本は日本人による北樺太進出の重要性を言いたかったのかもしれません。すでに外満州(沿海州)がロシアの手中に入ったこの頃、樺太はもはや中国人・満州人の勢力圏ではなかったでしょう。それでも満州の一部とみなし、進出を渋っていては、間違いなくロシア人が樺太全土を手中に収めると、そう考えたのかもしれません。この巡検から10年もしないうちに、岡本の懸念は現実と化します。

田村隖から1里強進むと、弓状に入り込んだ海岸線に出ました。ここに4つの村があって、それぞれ餓屡隖・掘手這隖・与市這隖・井口這隖といいます。うち3つに「這隖」と付くのが興味深い。

この辺りの海域は浅く、舟が泥にはまってしまいました。アムール川(黒竜江)河口部が近いせいか、周囲よりも塩分濃度が薄く、塩辛さを感じないようです。試しに飲んでみたい気もしますが、いかんせん公害垂れ流しの中国から来た水とあっては、ずいぶんと体に悪そうです。

与市這隖に到着したところで休憩に入ります。従者たちの提案で、この日の移動を止めて宿営することに。

日没を迎えたころ、村人たちが一行の元を訪れました。そこでアムール河口の位置を尋ねると、村人たちは南西部を指さして言いました。「沿岸にロシア人の入植地があり、その数は年々増えている」と。岡本はさらに尋ねました。「この辺りの女たちはロシア人相手に売春をするのか」と。村人たちは頷きました。

この地では売春の報酬に木綿布を受け取ったようです。物々交換はニブフの常ですが、そこまでしないと入手できないものもあったのでしょう。東海岸よりも混血の割合が高そうです。

夜、周吉が村人宅をたずねると、一人の女が出迎えました。そして言います。「もし木綿をくれれば、一晩の相手をして差し上げましょう」と。生活物資を輸入に依存したニブフ社会の暗い側面が見え隠れしています。


...といったところで、24回目の解説を終えたいと思います。

ついに樺太西海岸に突入しました!ここからしばらくの間、対岸に大陸を見ながら進んでいきます。東海岸よりもぐんとロシア人の影響力が強くなるはず。

(参考文献)
吉田東伍『大日本地名辞書』続編、冨山房、1909年
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