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斉召南『水道提綱』巻二十四「大長島」を読む(1)―樺太西海岸編

ロシアによる実効支配が続く北方領土「樺太」について、今日の日本人が知る機会はごく限られています。

かりに知る機会があったとしても、それはたいていロシア寄りのバイアスがかかったものでしょう。なおかつ政府が領土問題を実質棚上げしているため、そこで問題意識が問われることは殆どありません。あたかも、ロシア(当時のソ連)が正当な手段で樺太南部を獲得したかのように思わせる、ミスリードを誘発する情報が氾濫しています。

そんな日本社会に対して、ほんの一人だけでもいいから樺太問題を知ってほしいと思い、樺太史に度々言及してきました。今回は日本でもロシアでもなく、中国人視点で書かれた原典を一つご紹介します。

まだロシア人が極東に進出していない頃、北樺太―とりわけアムール川河口部に対峙する北西部―では、清との往来・交易がおこなわれていました。『窮北日誌』の中でも、岡本監輔は「日本社会はこの地(北樺太)を満州の一部と見なしている(巻下・7月7日)」と言及しており、ロシア進出までは、清の影響を受けていたと考えられます。

時代は乾隆の頃、斉召南によって『水道提綱』という水路誌が著されました。中国内地だけでなく、周辺領域の河川流路やそれに関連する地理情報が記載されています。その中には樺太に関する記述もあり、範囲はほぼ北樺太(北緯50度以北)に相当します。

今回はそんな『水道提綱』の樺太に関する記述を、2回に分けて解説します。

その位置と経緯度について

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記述範囲はそれほど広くありません。巻二十四・赫隆江の項目に記載されています。アムール河口沖(間宮海峡)に関する記述から、順に読み進めていきましょう。青枠内は白文、赤枠内は書き下し分です。

また、白文地名にはピンインも併記しています。

自小圓島隔海東百數十里為東大長島之白和必(Bai-he-bi)河口。大長島為黒龍江口海中大護沙。

南北袤邪長一千六百餘里。南自極髙四十九度八分至北髙五十四度四分。東西最濶三四百里或一二里。

西近黒龍南小圓島為東二十六度半至東北斜處為東三十度三四分。


小円島より海東を隔つこと数百十里、東を大長島の白和必河口と為す。大長島を黒竜江口の海中の大護沙と為す。

南北の袤邪長、一千六百余里。南せば極の高さ四十九度八分よりして、北に至れば高さ五十四度四分なり。東西の最も濶(ひろ)きは三四百里、或ひは一二里なり。

西の黒竜南の小円島に近きは東二十六度半と為りて、東北の斜処に至るは東三十度三四分と為る。

アムール川河口部には小さな島が点在しています。そこから海峡を隔てた対岸部あるのが、白和必(鉾部:Pogibi)川の河口です。ここでは樺太を「大長島」と記しており、現在のように細長い島と認識していたようです。樺太をアムール河口の防波堤になぞらえているのが面白い。

島の範囲は実際よりも小さく記録されており、北はガオト岬、南は北知床岬までに相当すると考えています。ただ実際のところ、北緯49度8分は北知床半島よりもかなり北です。

地勢について

地形夭矯如游魚。中脊有山連峰。自北至南松林相望蜿蜒不絶。

水分流東西入海。近海平地有居人數處。其山有名者曰英額申(Ying-e-shen)山。


地形の夭矯たること游魚のごとし。中脊に山有るは連峰なり。北より南に至れば、松林の相ひ望むこと蜿蜒にして絶へず。

水 東西に分流して海に入る。近海平地に居人有ること数処。其の山の有名なるは英額申山と曰ふ。

次に記されているのは、地形に関する情報です。その形は泳ぐ魚のごとく、中央には山脈が連なっています。

ここでようやく地名が出てきました。英額申山は北樺太きっての名峰です。吉田(1909)では「エングイス」ないし「エンジェス」という名で紹介されており、これに「山」を意味するニブフ語 "pal" を伴い、称することもあります。

西海岸の河川について

正居島中其水西流入海者有八。

白和必河源出英額申南麓西南流、有一水自東來會又西南曲曲。入海長三百里。此河口之南為汪艾(Wang-ai)河口、又東南為低巴怒(Di-ba-nu)河口、又東南為温忒呼(Wen-te-hu)河口。南岸即拉喀(La-ka)噶山也。以上皆西南流者。

又東南為出可金(Chu-ke-jin)河口又東南為出拉(Chu-la)河口又南為特懇(Te-ken)河口。南岸有噶山。以上皆西流者。

又東南為衣堆(Yi-dui)噶山河口、西南流者。又東南二百里為蒲壟(Pu-long)噶山。又東南曲曲而南為島之南盡處。

白恬必河口而北而東北九百餘里無水也。島西近黑龍江口兩岸、惟白和必河口亦正為島地之中、其北其南則與兩岸遠數百里矣。


正に居島中、其の水の西流して海に入るは八有り。

白和必と曰ふは、河源を英額申の南麓西南に出す。一水有りて東より来会す。又た西南すること曲曲たり。入海までの長三百里なり。此の河口の南を汪艾河口と為し、又た東南を低巴怒河口と為し、又た東南を温忒呼河口と為す。南岸即ち拉喀噶山なり。以上、皆な西南流の者なり。

又た東南を出可金河口と為し、又た東南を出拉河口と為し、又た南を特懇河口と為す。南岸に噶山有り。以上、皆な西流の者なり。

又た東南を衣堆噶山河口と為し、西南流する者なり。又た東南二百里を蒲壟噶山と為す。又た東南すること曲曲にして南を島の南尽処と為す。

白恬必河口より北して東北すること九百余里、無水なり。島の西 黒竜江口の両岸に近し。惟れ白和必河口も亦た、正に島地の中を為し、其の北其の南せば則ち両岸との遠きこと数百里なり。

今回は西海岸の説明まで読んでいきます。

やけに噶山という名称が目につきますが、これはどうやらアイヌ語の「コタン」を音写したもののようです。これが正しければ、蒲壟噶山はアイヌ語 "Poro-kotan" の音写ということになります。

西海岸に流出する主要河川として、ここでは8つを挙げています。白活必(鉾部)川の南には汪艾(和牙:Uangi)川の河口があり、こちらもまた吉田(1909)で詳しく説明されています。

拉喀・特懇・衣堆・蒲壟はそれぞれLakh(夏子岬)・Tyk(戸塚)・Aleksandrovsk(落石)・Pilvo(ホロコタン)に比定できますが、その他河川名の考察には悩みました。それほど広範囲ではありませんから、候補は大きく絞れるものの、現行名とはまったくの別名称である以上、即座に断定するのはいささか乱暴すぎると思ったからです。

現時点で最適と判断した候補は以下の通り。

低巴怒:Malaya Uangi川
温忒呼:Chernaya川(1)
出可金:Chernaya川(2)
出拉:Varnak川


Chernayaに番号を振ったのは、当該河川がいずれも同名だったからです。いくらなんでも、近接する河川に同じ名前を付けるとは、あまりにも適当すぎゃしませんかね...ロシア人の皆さん。

蒲壟以南と白和必以北は大まかな記述にとどまり、河川名・地名は登場しません。さすがに清代中期の中国人にとって、樺太は「数多い辺境の一つ」でしかなかったのでしょう。

これにて西海岸の記述は終わり、東海岸の記述に移りますが、それはまた次回解説したいと思います。

(参考文献)
岡本文平『窮北日誌』北門社、1871年
吉田東伍『大日本地名辞書』続編、冨山房、1909年



あとがき:明日はひな祭りか

花粉が飛んで目と鼻グチャグチャが続く中、とうとう3月に入りました。

3月上旬の伝統行事といえば、そりゃもう3日の「ひな祭り」でしょう。

個人的には『こち亀』両さんの誕生日というイメージが強いです。たしか誕生日が来るたびに、何かと不幸な目に遭うんですよね...両さんは。

近所のスーパーで買い物をしていると、ひなあられや菱餅など、季節を感じさせるお菓子が売られていました。求肥系の和菓子はつい食べたくなりますが、今は減量中ですし我慢するのみ!

菱餅といえば小学生のころ、毎年この時期になると給食のデザートにあったのを覚えています。甘く味付けされていて、ちょっと硬めの食感がお気に入りでした。

もう一度あの頃に戻りたいなと思う、ちょっとセンチメンタルなうらたつきでした。
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