斉召南『水道提綱』巻二十四「大長島」を読む(2=完)―樺太東海岸編
中国文献から樺太地理を読み取るべく、斉召南『水道提綱』巻二十四「大長島」にあたる箇所を読んできました。今回は樺太東海岸の記述について、地名抽出や解説を入れたいと思います。
青枠内は白文、赤枠内は書き下し文です。また、白文地名にはピンインも併記しています。

▲樺太東海岸・郭多和以北の地図
(入力地名は推定箇所を指したもの)
記述が専ら間宮海峡周辺にとどまっていた西海岸とは対照的に、東海岸の記述はずいぶん広範囲に及んでいます。
ここでは9つの河川が紹介されており、まず最初に挙げているのが、白活必(鉾部)と源流の山を同じくする川「郭多活」です。もし地形通りであれば、Nuyyskiy(縫江)湖への流入河川(鷺毛川等)と見なすべきですが、とてもそうとは思えません。
いったん郭多和を飛ばして、次の記述を見てみます。その北側には努列河が流出していますが、こちらは分かりやすい。鷺毛川とNuyyskiy(縫江)湖の湖口部でしょう。にしては距離のつじつまが合いません。計測技術がまだ進んでいないのと、往来人口の少なさを考慮して、距離の記述に関しては参考程度に留めておきます。
以降の河川名と位置はそれぞれ、Nyyskiy(縫江)湖、Chayskiy(茶江)湖、Piltun(弁連戸)湖、Urkt(音沓戸)湖の湖口部を想定しています。努列・達喜双方の河口を縫江湖口に比定しましたが、オホーツク海への流出部が南北二カ所あるためです。ここでは南側を努列河口に、北側を達喜河口に比定します。最後の厄里耶河口に関しては、Gilyako-Bunan川との関連性を想定しています。
最後に郭多和の検討に入ります。先述のように努列河口をNyyskiy湖口とした場合、その南側に広がるNabilskiy(弥勒翁)湖の湖口部を、郭多和河口に比定できます。湖畔部の地名を見ると、米軍地図に「Katanga」という類似地名を確認できました。一般的には「カタングリ」と呼ばれることが多く、ノグリキを経てオハに至る軽便鉄道の始発駅があった場所です。岡本監輔の『窮北日誌』には登場しません。
吉田(1905)はここに挙げた地名とほぼ同じ個所を、比定地と見做しました。ただし郭多和に関しては、鷺毛川の別名ではないかと考察しつつも、比定を避けています。

▲北樺太南部の地図
(入力地名は推定個所を指したもの)
郭多和以南はかなり分かりづらく、大まかにしか分かりません。地図にも類似地名は見当たらず、吉田(1905)も大まかな考察に留まっています。河川の規模から考えると、おそらく塔塔瑪はLunskiy(呂郷)湖、啟社什はChamgu(丁母木)川、阿当衣はLangeri(縫鵜)川のことでしょう。
さらに南下すると、アイヌ集落(≒日本支配地域)が増えてきます。ニブフ・ウィルタ優勢の地域が途切れたところで、記述が終わっており興味深いです。当時の中国人・満州人商人たちは、アイヌよりもニブフ・ウィルタを優先して交易していたのかもしれません。そう考えると、「アイヌモシリ」の手前で記述が終っていても、けして不思議なことではないと思います。
以上、二回に分けて『水道提綱』の樺太パートを読んできました。中国人が樺太の土地をどう呼び、どこで活動していたのか、うっすら見えてきた気がします。
列挙された地名の中には、岡本監輔や松浦武四郎が記録していないものも確認できました。とくに「郭多和」の記述は興味深く、カタングリがロシア人以外にどう呼ばれていたのか、それを知るうえでも有意義な資料といえます。
今日の「樺太観」はロシア人視点にたつものが多く、大手メディアの報道一つとっても、誤解を招いたり、日本にとって不利な思考に誘導したりする表現が目立ちます。ロシアによる侵略行為がエスカレートしつつある今こそ、日本人も当事者として「樺太観」を再考すべきではないでしょうか。「サハリン観」ではなく...。
(参考文献)
吉田東伍『大日本地名辞書』続編、冨山房、1905年
青枠内は白文、赤枠内は書き下し文です。また、白文地名にはピンインも併記しています。
東海岸の地勢について(郭多和以北)

▲樺太東海岸・郭多和以北の地図
(入力地名は推定箇所を指したもの)
東流入海者有九。
自白和必河源而東隔山為郭多和(Guo-duo-he)河。兩源合東流入海。其東北二百餘里為努列(Nu-lie)河口長三百餘里。
又北為達喜(Da-xi)河口。又北為薩衣(Sa-yi)河口、北岸有噶山。
又北稍西二百餘里為披倫圖(Pi-lun-tu)河口、北岸有噶山。
又北百數十里為厄里耶(E-li-ye)河、東北北流、入海之口北岸有噶山。自此而北百里為島北盡處也。
自白和必河源而東隔山為郭多和(Guo-duo-he)河。兩源合東流入海。其東北二百餘里為努列(Nu-lie)河口長三百餘里。
又北為達喜(Da-xi)河口。又北為薩衣(Sa-yi)河口、北岸有噶山。
又北稍西二百餘里為披倫圖(Pi-lun-tu)河口、北岸有噶山。
又北百數十里為厄里耶(E-li-ye)河、東北北流、入海之口北岸有噶山。自此而北百里為島北盡處也。
東流入海する者 九有り。
白和必河源より東せば、山を隔ちて郭多和河と為す。両源合はせ東流して入海す。其の東北二百余里を努列河口と為し、長さ三百余里なり。
又た北を達喜河口と為す。
又た北を薩衣河口と為し、北岸に噶山有り。
又た北稍や西の二百余里を披倫図河口と為し、北岸に噶山有り。
又た北百数十里を厄里耶河と為すは東北北流にして、入海の口の北岸に噶山有り。此より北百里を島の北尽処と為すなり。
白和必河源より東せば、山を隔ちて郭多和河と為す。両源合はせ東流して入海す。其の東北二百余里を努列河口と為し、長さ三百余里なり。
又た北を達喜河口と為す。
又た北を薩衣河口と為し、北岸に噶山有り。
又た北稍や西の二百余里を披倫図河口と為し、北岸に噶山有り。
又た北百数十里を厄里耶河と為すは東北北流にして、入海の口の北岸に噶山有り。此より北百里を島の北尽処と為すなり。
記述が専ら間宮海峡周辺にとどまっていた西海岸とは対照的に、東海岸の記述はずいぶん広範囲に及んでいます。
ここでは9つの河川が紹介されており、まず最初に挙げているのが、白活必(鉾部)と源流の山を同じくする川「郭多活」です。もし地形通りであれば、Nuyyskiy(縫江)湖への流入河川(鷺毛川等)と見なすべきですが、とてもそうとは思えません。
いったん郭多和を飛ばして、次の記述を見てみます。その北側には努列河が流出していますが、こちらは分かりやすい。鷺毛川とNuyyskiy(縫江)湖の湖口部でしょう。にしては距離のつじつまが合いません。計測技術がまだ進んでいないのと、往来人口の少なさを考慮して、距離の記述に関しては参考程度に留めておきます。
以降の河川名と位置はそれぞれ、Nyyskiy(縫江)湖、Chayskiy(茶江)湖、Piltun(弁連戸)湖、Urkt(音沓戸)湖の湖口部を想定しています。努列・達喜双方の河口を縫江湖口に比定しましたが、オホーツク海への流出部が南北二カ所あるためです。ここでは南側を努列河口に、北側を達喜河口に比定します。最後の厄里耶河口に関しては、Gilyako-Bunan川との関連性を想定しています。
最後に郭多和の検討に入ります。先述のように努列河口をNyyskiy湖口とした場合、その南側に広がるNabilskiy(弥勒翁)湖の湖口部を、郭多和河口に比定できます。湖畔部の地名を見ると、米軍地図に「Katanga」という類似地名を確認できました。一般的には「カタングリ」と呼ばれることが多く、ノグリキを経てオハに至る軽便鉄道の始発駅があった場所です。岡本監輔の『窮北日誌』には登場しません。
吉田(1905)はここに挙げた地名とほぼ同じ個所を、比定地と見做しました。ただし郭多和に関しては、鷺毛川の別名ではないかと考察しつつも、比定を避けています。
東海岸の地勢について(郭多和以南)

▲北樺太南部の地図
(入力地名は推定個所を指したもの)
自郭多和河口而南而西南二百里為塔塔瑪(Ta-ta-ma)河口。
又東南二百餘里為啟社什(Qi-she-shen)河口。
又東南三百里為阿當衣(A-dang-yi)河口。自此曲曲而南而東而西南至盡處無水。
又東南二百餘里為啟社什(Qi-she-shen)河口。
又東南三百里為阿當衣(A-dang-yi)河口。自此曲曲而南而東而西南至盡處無水。
郭多和河口より南して西南すること二百里を塔塔瑪河口と為す。
又た東南二百余里を啟社什河口と為す。
又た東南三百里を阿当衣河口と為す。此より曲曲たり。南して東して西南すれば、尽処無水に至る。
又た東南二百余里を啟社什河口と為す。
又た東南三百里を阿当衣河口と為す。此より曲曲たり。南して東して西南すれば、尽処無水に至る。
郭多和以南はかなり分かりづらく、大まかにしか分かりません。地図にも類似地名は見当たらず、吉田(1905)も大まかな考察に留まっています。河川の規模から考えると、おそらく塔塔瑪はLunskiy(呂郷)湖、啟社什はChamgu(丁母木)川、阿当衣はLangeri(縫鵜)川のことでしょう。
さらに南下すると、アイヌ集落(≒日本支配地域)が増えてきます。ニブフ・ウィルタ優勢の地域が途切れたところで、記述が終わっており興味深いです。当時の中国人・満州人商人たちは、アイヌよりもニブフ・ウィルタを優先して交易していたのかもしれません。そう考えると、「アイヌモシリ」の手前で記述が終っていても、けして不思議なことではないと思います。
おわりに
以上、二回に分けて『水道提綱』の樺太パートを読んできました。中国人が樺太の土地をどう呼び、どこで活動していたのか、うっすら見えてきた気がします。
列挙された地名の中には、岡本監輔や松浦武四郎が記録していないものも確認できました。とくに「郭多和」の記述は興味深く、カタングリがロシア人以外にどう呼ばれていたのか、それを知るうえでも有意義な資料といえます。
今日の「樺太観」はロシア人視点にたつものが多く、大手メディアの報道一つとっても、誤解を招いたり、日本にとって不利な思考に誘導したりする表現が目立ちます。ロシアによる侵略行為がエスカレートしつつある今こそ、日本人も当事者として「樺太観」を再考すべきではないでしょうか。「サハリン観」ではなく...。
(参考文献)
吉田東伍『大日本地名辞書』続編、冨山房、1905年
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